鹿島茂「パリ・世紀末パノラマ館」

 たまたま見かけて、読み始めたら、これが面白かった。19世紀末から20世紀にかけてのパリの街と風俗と文化を、イラスト、絵画、写真などをもとに、まさにパノラマ館のように見せてくれる。パリ万博を先頭に、電話、映画、大衆紙、デパート、鉄道旅行、自転車、オリンピック、そしてエッフェル塔と、大衆消費社会が怒濤の如く押し寄せ、20世紀が始まる。ナポレオン3世のパリの都市改革、その思想的バックボーンとなったサン=シモンとフーリエ、どれも今まで名前は知っていても、よく知らなかったことだけに刺激的だった(サン=シモンは理解できるのだが、フーリエまで来ると超絶的思想の人でちょっと付いていけない)。
 で、なかなか含蓄があるのが、プロローグでの「ヨーロッパでは、世紀の切り替わりは十五年ほどずれ込むのが慣例となっている」という指摘。というのは・・・

 たとえば、一七一五年、この年、フランスのルイ十四世が崩御し世紀は「理性・バロック」の十七世紀から「啓蒙・ロココ」の十八世紀に変わっていく。また一八一五年にはナポレオンがワーテルローの戦いで敗北し「進歩・ロマン主義」の十九世紀が始まる。さらに一九一四年には第一次大戦が勃発し「大衆・機能主義」の二十世紀の幕が切って落とされるという具合である。

なるほどなあ。ということで・・・

 おそらく二十一世紀に入ってもなおしばらくは二十世紀の影響が残るだろう。そして二〇一五年ごろに、世界を大きく揺るがす事件が起こり、まったく新しい時代が始まるという経緯をたどるにちがいない。

 この予言は当たりそうだなあ。20世紀の社会主義は崩壊した。しかし、なお中国は共産主義国家の建前は捨てていない(まあ、既に共産国家といえるかどうかという気もするが)。世界最強の帝国となったかに見えた米国はイラク戦争の泥沼化、サブプライムローン問題をきっかけとした金融危機に揺れている。21世紀もドルの時代が続くのかどうか。インターネット革命はまだ始まったばかりで、さらに加速している。もう「大衆・機能主義」がキーワードではないし、「大量生産・大量消費」の時代ではないし、成長と環境のバランスが求められる。新たな時代の思想の手前にいることは確かだ。はっきりと「21世紀」が見えてくるのが、2015年というのは説得力がある。
 歴史はどこかで現代に通じるものを思い起こさせてくれる。たとえば、経済における「信用」。ナポレオン3世は、パリ改造を実現するのだが、これは歴代政権の課題でもあった。それまでの政権も、ナポレオン3世も、その財源を公債に求めながら、前者は失敗し、後者は公債を活用した都市の再生と経済の活性化に成功した。なぜか。

 その答えはナポレオン三世というアウラを持つ名前にある。すなわち、ナポレオン三世がクー・デターで全権を掌握したとき、国民は、そこに国家の秩序と安定を、いいかえれば、国家に対する「信用」を見いだしたのである。公債に投機家の人気が集まり、入札価格が高値になったのも、また払い下げの敷地が高値で分譲できたのも、すべては、ナポレオン三世という名前のブランド効果のおかげだったのである。「《帝国》それは《平和》だ」とナポレオン三世は演説したが、彼はもちろん、この「帝国」によって保証された「平和」の別名が「信用」であることを知っていたのである。

 これは経済の本質だなあ。「グリーンスパン」には「信用」があったが、「バーナンキ」にはない。「ブッシュ」は米国が長い間保持してきた「信用」を毀損した。毀誉褒貶はあっても、小泉首相には「信用」があったが、安倍首相にも、福田首相にもない。日銀総裁がいないときに、どこに「信用」を求めるのか。「金」という古典的な物質に「信用」を求める動きが加速しているのだろうか。やはり、歴史は勉強しないとダメだなあ。いまの時代の解答のヒントもどこかに潜んでいるかもしれない。少なくとも思考を整理する上での座標軸を提供してくれる。