水村美苗「日本語が亡びるときーー英語の世紀の中で」

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

 梅田望夫氏のブログで日本人必読の書として紹介されていて、興味を持って読み始めたら、これは刺激的というか、恐ろしい本だった。必読書というのが、よくわかる。インターネットの時代が英語の時代とは、よく言われる話だが、言語を「普遍語」「国語」「現地語」と分け、普遍語としての英語の圧倒的優位が知の世界をいかに変貌させていくかを論じる。普遍語と知の関係については象徴的な事例で紹介される。ポーランド生まれのコペルニクスも、イタリアのガリレオも、ドイツ生まれのケプラーも、英国生まれのニュートンも論文はラテン語で書いたというのだ。共通の言語、普遍語で書かれることによって知は蓄積し、科学は進化していく。「叡智を求める人」は普遍語に通じることによって、知の図書館に入ることができるという。普遍語によって知は蓄積され、知を求める人は普遍語に集結する。
 いまインターネットは英語の普遍語化を加速している。そうした中で日本語の知はどうなっていくのか。気になったのは、こんな一節。

 どのような職業についていようと、<叡智を求める人>ほど<普遍語>を読もうという思いがいよいよ強くなる。そしてもし<普遍語>を読めるようになれば、かれらは、日常生活のなかでも、知らず知らずのうちに、<普遍語>の<テキスト>のほうを注意深く読むようになっていく。知らず知らずのうちに、<自分たちの言葉>で書かれた<テキスト>を、たんなる娯楽として、読み流すようになっていく。世界で重要なことが起こっているのを知りたいときは英語のメディアに目を通し、自国のスポーツの結果などを知ろうとするときだけ自国のメディアに目を通すという風になっていく。そして、そのうちに、<自分たちの言葉>からは、今、何を考えるべきかなどを真剣に知ろうなどとは思わなくなっていく。

 これは既に始まっているように思える。英語力の貧弱な自分でさえ、今回の金融危機や米国情勢、アジア情勢について知りたいと思ったときは、New York TimesWall Street Journal、Financial Times、Economist、CNN、BBCのサイトを見に行っている。New York TImesに行けば、ノーベル賞経済学者であるクルーグマンの最新時評を読むことができる。中東情勢だって、アルジャジーラの英語サイト、欧州情勢は、独シュピーゲルやFrance 24の英語サイトを見ることが増えた。日本のメディアを見るのは、エンターテイメントであったり、スポーツであったり、犯罪・社会ネタが多くなってきている。
 世界に語りかけようとするとき、知の蓄積に貢献しようというとき、普遍語となった英語で発信しないことには、どうしようもない世界が生まれてきている。グーグルの検索にリストアップされなければ、情報は存在しないのも同じといわれているが、さらに英語でなければ、という条件がつくようになるのかもしれない。考えてみれば、日本の武士道が世界で知られているのも、新渡戸稲造が「Bushido: Soul of Japan」を英語で書いたからだからなあ。「武士道」のように、日本人が英文で書いた著作を日本語に翻訳して出版するなんてことが、増えていくんだろうか。
 日本語と英語、そして知の有りようについて考えさせる本。夏目漱石の苦悩の深さも、この本を通じて、より深くわかった。「三四郎」って、こう読むのかと、水村氏に教えられた。