ヤーコブ・ブルクハルト「世界史的考察」

世界史的考察 (ちくま学芸文庫)

世界史的考察 (ちくま学芸文庫)

 ブルクハルトの歴史講義。どのように歴史をみるか。印象に残ったところを抜き書きすると・・・。

 グスターフ・フライタークは、例えば十六世紀と十七世紀に比べて現代の特質を表すのに、「義務感と誠実」の増大、もしくは「内容、力量そして誠実」の増大という表現を使っている。しかし、過去の時代に買収行為や破廉恥な行為や、特に「暴力行為」があったとか、あるいは未開人にあっては残虐な行為や背信行為があったといって、これについていろいろ証拠を挙げて言いたてるのは間違っている。人々はあらゆる事柄を、現在のわれわれが生きていくうえでどうしてもなくてはならない外面的な生活上の安全度を基に判断するものであり、また人々は過去を、こうした環境がなかったという観点から避難するが、現在においても、例えば戦時において、一時的に停止するようなことがあると、たちまちあらゆる残虐行為の兆しが現れるのである。人間の魂も頭脳も、歴史時代に入って向上したと証明することはできない。(中略)倫理的に向上しつつある時代に生きているというわれわれの憶測は、敢えて危険を冒している過去の諸時代とくらべると、きわめて滑稽である。

 この本の基になった講義草稿は1868年ころにつくられたようだが、確かに人類は進化しているわけではなく、むしろ二十世紀は強制収容所大量破壊兵器の時代になってしまい、「あらゆる残虐行為」が行われることになったんだなあ。
 そして、国家が文化、社会に対して優位に立つと

 精神は政治的権力に迎合的に歩みよる。政治的権力が強要しないことでも、人々はその権力に気に入れられようとして進んで行う。(中略)文学と、そして哲学さえも国家を賛美することに唯々として憂き身をやつし、芸術作品も権力におもねた、巨大な記念碑的なものとなる。そうでないまでも、文学、哲学、芸術は宮廷に受け入れられるようなものしか生み出さない。精神はあらゆるやり方で飯の種になるものに手を出し、「既存のもの」にすがりつく。費用を支払われた、また費用の支払われることを望む作品のかたわらで、こうしことにこだわらない作品は、亡命者たちや、せいぜい一般民衆のために書く娯楽作品のかたわらで僅かに命脈を保っているにすぎない。

 現在は「政治的権力」だけではなく「経済的権力」への迎合が問題だろうなあ。文化・芸術の貧困はそこから来るのかも。また、こんな話も。

 結局のところ、人間の内部には大きな周期的変化を求める抑えがたい衝動がひそんでいるのであり、どれほど人間に平均して幸福感が与えられていようと、人間はいつの日か(そうだ、そんな日にはますます本気になって!)ラマルティーヌと一緒にこう叫ぶことであろう、「フランスは退屈している!」。

 民主党への政権交代も同じことだろうか。日本は退屈していたのか。それとも、もっと本質的な変化か。難しいところだなあ。最後に芸術について

 芸術は技倆であり、力であり、創造である。芸術の最も重要な、中心をなす原動力、すなわち想像力は、いかなる時代においても神的なものと見なされてきている。内面のものを外面化し、表現すること、その結果として内面のものが、表現された内面のものとして、一つの啓示として作用するということは、最も希有な特性である。たんに外面的なものをもう一度外面的に表現するということは多くの人たちのなし能うところである。ーーこれに反して先のようなことは、こうした働きを生み出すことのできたただ一人の人だけしかなしえなかったのであり、したがって、その人は余人をもって代えがたい人であったという確信を、観る人、聴く人の心のうちに呼び覚ますのである。

 なるほどなあ。