島田裕巳『日本人の神はどこにいるか』
- 作者: 島田裕巳
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2002/06
- メディア: 新書
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目次で内容を見ると
第2章の「世界の神」では、ルーマニア生まれの宗教学者、ミルチア・エリアーデの『世界宗教史』をもとに、それぞれの宗教の特質を語っていくのだが、そのなかでは、オウム真理教と「ヨーガ」との関係についても語られる。麻原彰晃には宗教的な知識があったらしい。
このほか、クリスマスが世界で定着したのは、12月25日ということで各地に土着的にあった「冬至の祭」「正月のための予祝儀礼」としての性格があったからという指摘も面白い。キリスト教の初期には、キリスト生誕の日は定まっていなくて、1月6日や3月21日だったときもあったのだという。
第4章の「日本の神」で、面白かったのは、日本の宗教の中にも一神教として教理を構築しようとする動きがあったという話。「天理教」の二代真柱、中山正善がその人だが、この試みは定着しなかったという。また「氏神」を一神教で信仰される神のイメージと考える見方も紹介されている。
最後に、印象に残ったところを、いくつか抜き書き
わたしたちが初詣に行ったとき、祈りを捧げる存在が、一神教において信仰される神と同じものだといったとしたら、それはいいすぎだろうか。わたしは、けっしていいすぎだとは思わない。神とは、この世界を超越した、いっさいの属性をもたない存在である。それは、わたしたちが具体的に祈りの対象としている神や仏、祭神や本尊といった存在のさらに奥にあって、それらを支えるものであるはずである。
そうかもしれない。次に「神の存在」について
わたしたちは、神が存在するから、その神に祈りを捧げるのではないのかもしれない。一般にはそのように考えられているかもしれないが、事実はその逆なのではないか。わたしたちが祈りを捧げるからこそ、そこに神が存在する。そういってもまちがいではないであろう。人間にとって祈るという行為が不可欠であるからこそ、どの国、どの民族にも神が存在するのだ。わたしたちが祈りを捧げるかぎり、そこには神が存在するのである。
神学的なレトリックのようにもみえるが、理解できる。
ユダヤ教、キリスト教、イスラムとみると、最も古いユダヤ教は「ねたむ神」、次に登場したキリスト教は「愛の神」、そして最も新しいイスラムは「慈悲ふかき神」という。
慈悲ふかく慈悲あまねく神というイメージは、一神教における神概念の一つの到達点であるといえるのではないだろうか。神が絶対であるとするならば、それは、人間の善悪の判断を超えたものでなければならない。神は、人間と違う。人間のような喜怒哀楽をもつのではなく、すべてに超然としているはずだ。そして、被造物である人間をやさしく見つめている。それこそが、慈悲ふかく慈悲あまねき神なのである。
このあたりは宗教進化論という感じだが、一神教の性格の変遷を理解する手がかりになる。ともあれ、この本を読んでいると、ひとつの社会を理解するのには、宗教は大きな手がかりになるということが改めて分かる。欧米のこと、中東のことを理解するには、宗教を理解することが不可欠なのだろうな。宗教を知ることから、その社会の成り立ちが見えてくるのかもしれない。そんなことを考えさせてくれた本。