ヨリス・ライエンダイク『こうして世界は誤解する』

こうして世界は誤解する――ジャーナリズムの現場で私が考えたこと

こうして世界は誤解する――ジャーナリズムの現場で私が考えたこと

 中東特派員だったオランダのジャーナリストによる体験的・現代ジャーナリズム論。副題に「ジャーナリズムの現場で私が考えたこと」。ニュースが商品となり、映像が重視される時代に、事実を報道するとは何かについいて考える。とりわけ中東のような独裁国家、あるいはイスラエルパレスチナ問題のような見解が対立する複雑なテーマについて「事実」を報じるということがいかに困難かを語る。目に見えること、人々がカメラの前で語ることがそのまま真実とは限らない。加えて、戦争広告代理店のように国側のメディア対策(操作)が進化していく一方で、視聴者・読者の求めるニーズに迅速かつ簡潔に応えるという商業メディアとしての社内的なプレッシャーを受けながら、記者が現実を伝えていくことがどれだけ難しいかを、中東での取材体験をもとに論じる。
カタロニア讃歌 (ちくま学芸文庫) 自分は本当に真実を伝えているのか、という著者の痛切な思いが行間に溢れていて、最近、読んだジャーナリズム論の中では出色であり、最も刺激的な本だった。真実、公正に対する、この率直さ、真摯さは、ジョージ・オーウェルに似たところがあるとも思った。スペイン戦争に従軍したオーウェルが書いた『カタロニア讃歌』も、事実を公正に論じることに対する痛々しいほどの思いが行間にほとばしるが、この本で著者が中東の現実について必死になって語ろうとしているところも同様で痛切な思いを感じる。
 著者は、イスラエルパレスチナに関する報道では、イスラエル政府の卓抜なメディア戦略によりイスラエル寄りのニュースが多すぎると思っていたが、バランスをとるために自らの見解を入れるようなことはしなかったという。それには3つほどの理由があるのだが、そのうち最大のものは「もはや自分でも状況が皆目わからなくなっていたからだ」という。自分に正直な人だなあ。アラビア語を習得し、勉強して、取材して、占領地域に移住までして、なおかつ、わからない。何でも知っていて、何でも解説してしまうジャーナリストを演じるのではなく、現実の迷宮に身を投じ、行動し、考え、悩むジャーナリストの姿がある。筆者が特派員になって2週間目に、中東駐在のベテラン記者からこう言われたという。「中東についての本が書きたいのなら、最初の1週間で書き上げたほうがいい。長くいればいるほどわからなくなるから」。そのとおりになってしまう。
 本を読んでいて気になるところ、気に入ったフレーズには付箋を貼るのだが、この本は付箋だらけになってしまった。ともあれ、ジャーナリズムに関心を持つ人にとって必読の1冊といっていい。
 で、いくつか、印象に残ったところを抜書きすると…

 私は常々、“ニュース”というのは世界の最も重要な出来事を集めたものだと思っていた。けれども特派員として半年を過ごして、現実がわかった。ニュースとは、非日常をーー規則の中の例外をーー扱うだけのものだ。アラブのようにあまりよく知られていない世界ではこれが曲解を生む。アムステルダムのダム広場で誰かが銃撃されればそれはニュースになるが、そこで人が撃たれるなどめったにないことだとオランダ人は知っている。(略)しかし、中東での日常となると、果たしてどれだけのことを知っているだろう? 自分がシリアに渡るまえに、私は“シリアでの怒れる民衆のデモ”をニュースで見ていた。そんな私がシリア人は私たちを憎んでいる、シリアは危険な場所だ、と結論づけたとしてもなんの不思議もない。例外の話ばかり聞かされれば、それが通常のことと思い込んでしまうものだ。

 こうして偏った中東観が形成される。自分自身も“ニュース”を伝えることで、それを助長しているのではないか、という思いも見える。こんな話も…

 ヨーロッパの国々では、記者は趨勢を明示するために一般の人々との会話を使う。まずは街角のジョンのことばをふたつみっつ引用しておいて、それからこう書くのだーーこのように感じているニューヨーカーはジョンだけではない。少なくとも60パーセントの人々が….。しかし、私の場合、信頼に足る世論調査の結果が手に入るわけではなかった。意義のある統計は秘密にされていたからだ。だから、私の手持ちは文字どおり街角のひとりの男ーーあるいは女ーーのコメントしかないのだった。

 中東の独裁国家での話。この街角コメント主義は日本でも同じ。ただ、筆者ほど真面目に考えこんでいないかもしれない。記事執筆の技法として漫然と使われているのはテレビを見ていても、ときどき思う。ときには自分の意見を代弁させているだけでは、と思う時もある。コメントを入れるだけで本当に客観的なのかどうか。
 中東の取材について

 あとから振り返ると、アラブ世界における良質なジャーナリズムという考え方自体が明確に矛盾を孕んでいることに気づくのに、なぜあんなに時間がかかったのだろうと思う。何年もわからなかった理由は三つある。ひとつ、報道の仕組みがわかっていなかったからだ。ふたつ、現場の人間は誰もそんなことを話さないからだ。三つ、これが最大の理由だが、私にとって“独裁政治”ということばが長いあいだ抽象的な意味しか持たなかったからだ。

 独裁制の実感について

 最後にはサダム・フセインのおかげですっかり納得がいった。彼の国では独裁政治を眼にするだけでなはすまなかった。肌で感じることができた。セックスに喩えるといいかもしれない。何を読んだところで、実際に体験してみるまでは人々がなぜあんなに騒ぎ立てるのか、ほんとうにはわからなかった。

 なかなか卓抜な比喩。独裁政権下での生活を報道することの難しさについて…

 問題は大手メディアの基本原則にあった。人がテレビのニュースを見たり、ラジオを聞いたり、新聞を読んだりするのは、世界についてより多くを理解したいからだ。そうした人々が読んだり見たりする内容は正しくなければならない。だから、正しい姓と名、論争の双方の言い分、適切な確認と再確認ーー裏付けのある情報ーーが必要になる。ニューヨーク・タイムズ紙は1面に高らかに謳っている。“印刷に値するすべてのニュースを掲載します”。民主主義体制ではこれは最高に有用ですばらしい原則だ。しかし、独裁政権下では、印刷に値する、裏付けの取れる事実は、現実の中のきわめて小さな一部分に過ぎない。残りは四つの大きなフィルターに引っかかってしまう。

 その4つのフィルターは「在住者が抱く恐怖」、「信頼でき、裏付けが取れる数字や統計が事実上、皆無」、話したことがわかれば危険にさらされるという「情報源の立場の弱さ」、そして「何かについて聞き、事実確認をしたときに、情報源のフルネームがいくつか手に入ってもそれは報道できない」。第4のフィルターは、突発的な惨事にはニュース価値があっても、終わりの見えない独裁政権の日常や飢餓は読者・視聴者が求めているニュースではない…。うーん。確かに…。
 イスラエルパレスチナの問題について…

 この状況を客観的に報道するための問題はまだまだある。メディア戦争とはいかに同情票を獲得するかという戦いでもある。人々はたいてい力の弱いほうに共感を覚えるもので、当事者は双方ともに自分を弱者に見せたがった。自分たちの側の死者や、負傷者が流した血を可能なかぎりテレビに映そうとし、敵対者を可能なかぎり悪者に見せようとした。これはもっともなことながら、できるかぎり客観的な視点を保とうと腐心する特派員にとってはまた別の問題だ。一方が他方より苦しみを披露することに長けていたらどうするか? 私は聖地パレスチナへの最初の取材旅行ですぐにこの問題に行きあたる。

 難しい…。一方、文化の相違もある…。

 イスラエルユダヤ人は普通、静かな葬儀をおこなって死者を埋葬する。すすり泣く参列者や家族の冷静な弔辞とともに。こうした映像は西欧人にも理解できる。が、理性を失ったかのような大混乱の奥に隠された悲しみはどうしたら報道できる? パレスチナ人の葬儀はたいていそうした騒ぎになる。弱さは表に出てこない。アラブ人は家の中で、カメラから離れたところで死者を悼むのである。

 映像だけを見て、ユダヤ人に親近感を覚え、アラブ人の興奮に違和感を覚えるというのではなく、その背景の文化まで見なければ、ニュース映像が持つ本当の意味を理解することはできない。メディア・リテラシラーというのは、単に映像をどう見るかではなく、その背後の文化や歴史まで見ないといけないのだな。しかし、現実には視聴者・読者はなかなか、そうした我慢ができない。
 イスラエルパレスチナ自治政府を支援する。なぜか…

 私にもなぜイスラエルや西欧の政府がーーどう言い逃れをしようとーー独裁者と取引をしたがるのかよくわかった。権力を持ったひとりの男のほうが、民主的に選ばれた指導者より圧力をかけやすく、御しやすいのだ。なんといっても独裁者は、メディア戦争を戦うときに最強の人員を戦場に送ったりはしないからだ。

 なるほど。
 いろいろと興味深いギョーカイ用語も出てくる。アラブの人権擁護活動家は西側の支援を受けている。こうした活動家を支援する政府を業界では「ドナー(援助資金供与者)」と呼ぶ。そして、ヨーロッパの外交官は、アラブの人権擁護活動家を指して「ドナー・ダーリン(援助資金供与者のお気に入り)」という。で、こうなる。

大使館には人権擁護を支持するために使える基金があるが、彼らがそれを供与するのは西欧の政治目標に沿い、帳簿を可視化し、ほかの方法でも不正手段がないことを保証できる組織に対してだけだ。ドナー・ダーリンはこうした要件を満たし、なおかつ見返りとして何かを差し出す。たとえば、オランダの議員は定期的にエジプトその他のアラブ諸国に短期の視察旅行に行く。その際、大使館はドナー・ダーリンのもとに議員を送り込む。するとドナー・ダーリンは流暢な英語で、啓発、ジェンダー、公的権利、市民社会、良質な統治といった、まさにつぼを突いた申し分のない話を聞かせるわけだ。その結果、オランダに帰った議員は、アラブ訪問に関する熱烈な報告を書くことできる。

 人権を抑圧する独裁政権を支援するのも欧米なら、人権活動家をドナー・ダーリンにしているのも欧米という何ともいえない構造になっている。ジャーナリストも英語ではなく、現地の言葉で取材することが重要になる。
 既存メディアのジャーナリズムは問題を抱えている。では、ソーシャルメディアに活路はあるのか。それにも筆者は疑問を呈す。

 こうした生の素材の氾濫は新しい事態だった。が、一方に偏った談話が提示される点は、以前の重大局面のときとなんら変わらなかった。反体制のデモ参加者が自分たちの闘争をウェブ上に投稿すると、ほとんど自動的に彼らのものの見方が唯一の視聴者の視点になった。アフマディネジャド政権を支持する投票をしたイラン市民も何百万人もいたわけだが、彼らの投票の理由を西欧の視聴者が耳にすることはーーもしあったとしてもーーごく稀である。筋書きはデモ参加者の意見にほぼ統一される。

 “ニュース” の表面的な現象だけでなく、そこで語られていることと語られていないことの意味を考えるような情報が本当は必要とされているのだな。で、こんな話が…

 昨今のメディアの問題点は、背景を絡めた良質な分析が見つからない、ということではない。エコノミスト誌、BBCやNPRのドキュメンタリー、それに<ニューヨーク・レビュー・オブ・ブックス>や<ロンドン・レビュー・オブ・ブックス>に載る長文書評を見てみるといい。問題は、こうしたものに目を通す人がほとんどいないということだ。しかし、こういう分析や背景を知らなければ、前面に出てくるニュースをよりよく理解することはできない。あるドイツ人評論家が指摘したとおり、ジャーナリストは言い逃れのきくからくりの中で動いている。読者や視聴者が報道界全体を眺めてどこかに良質の仕事を見つけられるかぎり、それ以外のものは標準以下だろうが背景を無視していようがほとんど問題にされないのである。

 ニワトリと卵みたいな関係になっていくなあ。良質な読者が良質なジャーナリズムをつくるのか、良質なジャーナリズムが良質の読者をつくるのか?
 長々と抜書きしたが、これでも一部。ともあれ刺激的な本。ジャーナリズム論としても中東論としても面白い。
 この本は著者が中東特派員を辞めた後に書いたのものだが、現在は英ガーディアンで、金融ブログを担当している様子。ジャーナリズムのあり方を実験しているのだろうか。こちらの動きも注目かもしれない。ジャーナリストとしての行動をやめたわけではなさそう。それとも、中東特派員出身で「フラット化する世界」を書いたトーマス・フリードマンのように次は経済社会論を目指しているのだろうか。
The Joris Luyendijk banking blog - The Guardian => http://bit.ly/zgoxaW

ベイルートからエルサレムへ―NYタイムズ記者の中東報告

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