橘川幸夫『「生意気」の構造』

 新刊書を追うのも面白いけど、図書館で、ふっと目についた昔の本を借りて読むことも新しい発見があって、刺激的だ。昔の本といっても古典ではない。いまは時代の流れが速いから、10年も経てば、多くの本が書店の店頭から消え、内容にもカビが生えてしまっているような本が少なくない。ただ、中には今も生き続けている本がある。この時代に、こんな風に世の中を見て、こんなことを言っていた人が既にいたんだということを知るのは新鮮な驚きで、その論考は現在を考えるきっかけになったりもする。これも、そんな1冊。出版されたのは、1993年9月だから、すでに20年近く前。副題に「団塊ジュニアの発想が変える21世紀の日本」とあるが、ここので社会分析は今でも参考になるし、インターネット前夜に書かれた本なのに、インターネット社会を予見していたようなところがある。
 で、目次で内容を見ると、こんな感じ。

第1章 欠落感なき世代
 [1]反抗しない若者たち
 [2]コンドームが何をしたか?
 [3]生意気の構造ーー「ポスト団塊世代
 [4]戦後家族論ーー世代論の終焉
 [5]一応族を超えるもの
 [6]新語にみる若者たちの言語感覚
 [7]新・情報秩序の中での関係性
第2章 新世代スケッチブック
 [1]友だち関係
 [2]男女関係
 [3]むささび紀行
 [4]宗教についてーー選択することに疲れた個人
 [5]新世代スケッチブック
第3章 「豊かな社会」以後
 [1]ファジー家電論
 [2]三種の神器
 [3]情報の標準化
 [4]カラオケとゲームセンター
 [5]ファブレス社会
 [6]娯楽としての消費
 [7]メディアの今後
 [8]新しい世代とメディア

 印象に残ったところを抜書きすると(かなりあるのだが)、例えば…

 私たちのこれまでの社会は、欠落感覚をバネにして発展してきた。モノが欠乏している生産力を高め、技術が劣っているから追いつき追いこせでやってきた。欠落感覚こそが、日本をここまで成長せしめた原動力であり、敗戦による大欠落こそが戦後社会の推進力であった。(略)
 しかし、モノの充足した社会においては、こうした欠落感をバネにした方法論は無効になってくる。生産に対する努力から、欠落を埋めるという大義が欠落しはじめた。「若者たちがハングリーでなくなった」という言い方は「豊かな社会」に育ったから飢餓感がなくなったということと同時に、飢餓感から演繹される獲得目標と方法論が無効になってきているということを意味している。
 音楽の世界でいうと、60年代にビートルズがスタートさせたロックは、若者自身が作りだした新しいカルチャーとして、全世界に広がった。それは欠落したものを懸命に埋めるように、貪欲な実験を繰り返し、世界中の音楽と融合するかに見えた。しかし、今はロックは、新しい領域ではなく、団塊ジュニアにとっては、既に最初から確立されていた音楽である。何もなかった頃にビートルズを聴いた世代と、あらゆる音楽が揃っている中でロックを聴いている世代では、音楽に対する思い込みが違うのは当然である。

 なるほど。それでも、このあたりの分析は多いかもしれない。面白いのは、こんなところ。

 消費者のニーズに応えて優れた商品を提供することが企業にとって善であるというのは、欠落を充足させるための方法論に支配されていた時代の発想である。若者の意識を追求すればするほど、その最先端の意識の中では、企業に対する本質的な要求が、前世代のものとは大きく変換していることに気がつくはずである。
 若者の生意気さが嫌いになっている人は、もういちど、若者を商売の対象であるとか、強圧的に服従させるべき対象として見ている、自らの視線の根拠を検証すべきだ。古い方法論を自らの確信としている限り、21世紀の社会が求められている「新しい目的」は見えてこない。
 21世紀の「新しい目的」は、これまでのような「処理」や「構築」や「展開」などではなく「関係」という言葉に一番近い。「豊かな社会」の上に「豊かな人間関係」を再構築していくことだ。それは、生産と消費の方法論では決して見ることのできないコンセプトイメージだ。

 20年近く前、インターネットが一般の社会に普及する前に、関係性を既にキーワードとして見ていたのだ。先見性があるなあ。
 宗教について…

 どうやら「個性化追求」「他との差別化追求」というエネルギーがバブル崩壊とともに、衰弱してきたような気がする。個人化への道が急速であったために、意識の分裂が衰弱を推進させたのかも知れない。子どもの頃に確固とした共同体としての「家」を知っていて、成長してから個人中心の都市やメディアの世界に入ってきた人は余計に分裂に苦しんだのだろう。東北から出てきた桜田淳子と、南の島から出てきた山崎浩子が、宗教に救いを求めたのも分かるような気がする。

 そして…

 選ぶこと、個人であることに疲れても、今更、自分たちが壊した古い規範に戻るわけにはいかない。そこで、信じることによって個人を放棄させてくれる、新しくデザインされた規範を持った新宗教が注目されているのだろう。

 前段の「宗教」は、統一教会だが、後段の話は、オウム真理教を想起させる。オウム真理教は1990年の総選挙には真理党をつくって大量立候補していたから、このあたりは時代だったのだろうが、個人の時代と言われる中でのカルト宗教の問題を論じているところは目が鋭い。
 1980年代について...

 今の状況は、70年代のキャンパスに似ているように思う。60年代の大学に政治のラジカリズムが走り、その結果が見えてしまった70年代にシラけが蔓延したように、80年代は学生にとって「消費と遊びのラジカリズム」の時代であったような気がする。みんな、夢中になっておしゃれをし、車を買い、遊び、交流した。80年代の黄金のサークル時代を担った連中が同窓会的に集まり「あの頃は良かった」などと言っているのも70年代と同じである。

 80年代はバブルの時代。キャンパスもバブルに浮かれていたんだなあ。で、こう続く。

 70年代というのが、60年代に発見したものを確かめ鍛えるために必要な時間であったように、今のキャンパスのシラけの時間は、80年代に見たものを次の時代につなげていくために大切な時間だと思う。そういう中から、80年代サークル運動を超えようとする、新しい動きがゆっくりと始まっていくのに違いない。

 ここでいう「今」は90年代。90年代は何を生み出したのだろう。この本のあと、隆盛を極めるインターネットの担い手はこの世代、正確には、90年代後半組といったほうがいいのかもしれないが、彼らのバックボーンはこんなところにあるのだろうか。世代的には、70年代キャンパス組はPC文化を作り、90年代キャンパス組はネット文化を創った中心世代になったように思えるのだが、いずれも60年代高度成長組と80年代バブル組という、祭りの後に出てきたのだなあ、とか、読んでいて、そんなことを感じてしまう。
 続いて、「街のマガジン化」…

 街がマガジン化して久しい。街はもともと流動的なスクラップ&ビルドを繰り返してきたものだが、流動のスピードが加速し、まるで雑誌のグラビア頁のように、次々と違う顔を見せてくる。
 店というものが代々の稼業から、その時代を象徴する刹那的な店舗に移り変わっている。60年代からずうっと喫茶店だったところが80年代になってゲームセンターに変わり、80年代後半にプールバーに変身し、今はカラオケBOXになっていたりする。

 「街のマガジン化」とは言い得て妙だが、これは今も続く現象だなあ。このあと、「街の企画競争」という言葉も出てくるが、企画は流行り廃りがあるから、一発当てた街も次の新企画の街が出てくると、すぐに寂れてしまう。もう90年代からそうだったのだなあ。今の流行はスカイツリーだろうけど、いずれ新企画に話題を奪われるのか。
 そして、こんな話...

 「すべてはすでに語られた」という認識は、欠落感を埋めるために語りはじめる、という旧世代のインテリの発想とは、まるで違う動きを示すだろう。そして「著作権」のような、個人の側で情報を囲い込むような発想を、根本のところで揺るがすだろう。
 常に「新しいアイデア」を急進的に模索してきたロックという音楽は、白人たちが黒人たちのエートスを取り入れるところから始まり、過去のあらゆる音楽手法や、世界中の民族的音楽を取り入れ、さまざまな実験を繰り返しながら発展してきた「パンク」という、自らの根拠すら否定するような実験を経て、ついに、もはやオリジナルなものはなくなった、という認識に立った。
 では次の世代は、どうしたか。「新しさ」を過激に追求し、追求することによって結果的に「情報の標準化」が満たされた時、彼らは「リミックス」という発想に切り替えた。この世の中には、すでに「新しいもの」はない。新しいものを模索する方法論は終わった。後は、この満たされた情報の大地で遊ぶだけだ、と。今あるものをサンプリングし、そのサンプリングの仕方そのものを楽しんだ。
 おそらく、あらゆる領域の「芸術」がリミックスの時代に入っている。リミックスとは「欠落を埋めるための模索」というベクトルを放棄した後にやってきた、別のベクトルである。

 面白いなあ。Windows95ネットスケープブラウザー)の登場前の1993年に、「著作権」「リミックス」など、インターネットの世界を語っているような感じもする。加えて、エレクトロニクス産業で見ても、パナソニックソニーやシャープがいつまでも「欠落」を埋める経営を続けていたのに対して、アップルは「リミックス」によって、iPodiPhoneiPadを生み出したというようにも読める。今読むと、いろいろと考えさせられる。
 そして、メディアについて...

 新聞とは「村」のメディアである。建前がきっちりと成立していて、その上で活動する村人たちのためのメディアである。若い人たちが新聞から離れていくのも、新聞が共有している幻想にリアリティを感じないからである。
 「一つの対象をトータルに関係する」のが村の関係性とするのなら「無数の対象の中から選択して関係する」のが都市の関係性ということになるだろう。このことは、なによりも若者たちの情報摂取の仕方を見ていれば明らかである。あるメディアに対してトータルな関係性を持つのではなく、多様な情報の選択肢から、自分にとって「気分の良いもの」を選択しながら、自己編集していくのである。気分の良いというのは、ある人にとっては「スポーツ」かも知れないし、ある人にとっては「エコロジー」かも知れない。そこには、思想や人生観による、前提としての規定はない。まさに、そのときどきの「気分」によって、高速な選択処理を瞬時に行い、若者たちは情報を吸収していく。

 うーん。本当に1993年の本かと思ってしまう。ここで、情報をとる手段として出てくるのは「ぴあ」のような情報誌だが、インターネットの登場で専門化された情報源は爆発的に増えてしまう。でも、こうして見ると、インターネットやケータイのために新聞が衰退したという以前に、社会自体が既に新聞から離れていっていたのだなあ。ネットは、その傾向を加速させただけということもしれない。で、こんな一節も…

 若者たちは、私の知る限りでは、活字離れなどまるでない。むしろ、本の中毒みたいな人や、文を書く人たちもずいぶんいる。さまざまな形で情報が個人に蓄積されていく社会に生きているわけだから、知的レベルが低下するはずがない。しかし、決定的に旧世代と違うのは、情報を一方的に読まされることに拒否反応を起こすことである。本人が本陣の自覚のもとに活字に向かう場合は、驚くべき熱心さで向かう。今の新聞を若者たちが受け入れないとしたら、記事の内容というよりも、記事を作る基本的態度の中に、旧態依然とした「一方的押し付け」が存在し、それを敏感に感じ取っているからではないだろうか。

 20年近く前の文章かあ。既に指摘されていたんだなあ。ブログ、TwitterFacebookなどなど、テキストで個人が情報を発信する手段はますます増え、「一方的押し付け」に対する反発はさらに強くなっている。
 そして、都市論であり、監視社会論...

 人は田園生活の因習がいやで、個人の自由生活を求めるために都市に集まった。田園生活は、近所の眼によって、常に監視されていて、個人の自由な振る舞いは絶えずチェックされ、場合によっては村八分という制裁も用意されていた。都市生活には、因習としての近所の眼というものは少ない。アパートでは隣の人との付き合いは希薄だし、新興住宅地でも付き合う近所の数は少ない。付き合うとしても、個人的なフィーリングの問題であり、地域を背負おった共同体意識などまるでない。
 しかし、にもかかわらず、都市生活は、見られていることを自覚しながら生活する空間なのである。田園生活のように、具体的な誰かということではなく、もっと大きな、もっと抽象的な「眼」によって見られているという自覚なしに都市生活は過ごせない。それはたぶん「システム」という見えない装置であり、都市生活にとっては、新しい共同体として機能しているのだ。(略)
 見られている。それは具体的に盗聴されていなくても、私たちの電話は、いつ盗聴されてもおかしくないという可能性が存在し、銀行に行ってもレンタルレコード屋に行っても、どこでカメラが私たちを写していてもおかしくない、という可能性の中で生活している。これは、田園生活の意識を根に持っている都市生活者にとっては、ストレスになるだろう。

 このあたりも面白い。そしてインターネットの世界の話にも通じてくる。リアルな世界だけでなく、バーチャルな世界でも「見られている」という感覚がどんどん強まっている。
 20年近く前の本を今読んでも結構、面白いということは時代をよく読んでいたのだなあ。ただ、出版当時に読んで、その先見性を理解できたかというと、ちょっと自信がない。凡人としては、今だから、その面白さが分かるような気もする。