佐藤俊樹『ノイマンの夢・近代の欲望』

 『00年代の格差ゲーム』があまりにも面白かったので、追っかけで、こちらの本も読んでみた。出版当時、かなり話題になった本で、タイトルは知っていたのだが、何となく読まずに終わっていた。「情報化社会」という言葉をキーワードに「技術」と「社会」を考えた本。技術決定論に疑義を呈し、納得できるし、面白いには面白いのだが、情報化を切り口にしているため、1996年の本は、いかにも古く感じられる。論じている内容自体は技術と社会の関係に関する本質的な議論で、それ自体は今でも新鮮なのだが、例として出てくる話が、Facebookはもちろん、Google以前でもあるため、さすがに古色蒼然たる印象になってしまう。iモードは1999年のスタートだから、モバイル前夜。iPodも、iPhoneも、iPadもまだない時代。この10年、20年の情報通信の世界の変化はすごかったのだな。
 というわけで、目次で内容を見ると…

序 章 「情報化」の時代
      ーー情報技術は何を変えるのか?
第1章 「情報化社会」とはなにか
      ーー社会の夢・夢の技術
第2章 グーテンベルクの銀河系フォン・ノイマンの銀河系
      ーー人間・コンピュータ系の近代
第3章 会社は電子メディアの夢を見る
      ーーハイパー産業社会の企業組織
第4章 近代産業社会の欲望
      ーー「情報化」のインダストリー
第5章 超(ハイパー)近代社会への扉
      ーー21世紀近代と情報技術

 で、気になったところを抜書きすると…。
 まず、情報化で企業組織は変わるのか...などという議論をする以前に、日本の組織はどんな仕組みで動いているのか...。

 これも社会心理学の実験だが、被験者を二つの集団に分けてその間で競争を行わせると、たとえ誤った意見でも集団内で意見を一致させようとする。さらに、閉鎖性が高い集団では、異論を立てつづけること自体が強い孤立感を生む。これはかなり強力な心理的圧力となる。たとえなにもサンクションがかからなくても、孤立感にとらわれた人間は簡単に自分の意見を変えてしまうからだ。
 日常的接触が密な日本型組織でもまったく同じことが起きる。そこに生まれる心理的同調圧力が、全員一致への強いドライブになっているのである。その結果、日本型の決定プロセスでは、表面的には相互理解とよく似ているが、実質的には正反対の現象が起こる。相互理解ではあくまで判断そのものを近づけていくのに対して、日本型の相互妥協では、内容への判断をたなあげしても、意見の不一致をさける力が働く。意見の本当の中身を無視してまで相手に同調しようとするわけだ。

 「和の経営」を解剖していくと、和の尊重と言うよりも、村八分を恐れる社会心理が経営の中心にあるともいえるのか。
 人口構成が経営にも影響を与えるという話...。

「階層からフラットへ」という「組織革命」の話にも、本当はマクロ社会構造的条件が大きくかかわっている。とりわけ日本社会の場合、それは日本社会全体レベルでの変化と直接連動している。
 たとえば、日本型組織におけるコミュニケーションのあり方は、一つの企業に長く勤めるという、長期安定雇用の慣行と結びついていた。ところが、現在の日本企業は団塊の世代やバブル期の大量採用の関係で、年齢別人口構成にかなり「歪み」が発生しており、長期安定雇用を維持しづらくなってくる。今後はかなり若い年齢層まで人員削減や昇給停止がおよんでくるだろう。
 これは一時的な景気不景気の影響ではなく、本当は人口学的な問題である。団塊の世代やバブル期の大量採用というのは、ちょうど第一次および第二次のベビーブーム世代にあたる。この人口ピラミッドの「歪」がある以上、景気不景気にかかわりなく、日本型の雇用慣行は維持できなくなる。そうなれば、人員の代替性は当然大きくなり、アメリカ型の組織に近づいてくるのである。

 なるほど。

 「電子メディアが組織を変える」というのはたんなる神話にすぎない。組織のコミュニケーションは組織をめぐるしくみの一部なのだ。したがって、それをメディア技術の力だけで大きく変えることはできない。組織のコミュニケーションはむしろ組織をめぐるしくみの変化、とりわけマクロ社会構造的条件=社会全体レベルのしくみの変化のなかでのみ、決定的に変わりうるのである。

 IT化による経営革新がそんなに簡単なものではなかったとわかった21世紀の今となってみれば、当たり前といえば、当たり前の指摘なのだけど、技術の輝きに目を奪われていると、つい、こうした点を忘れてしまうのだなあ。
 21世紀の感性について...

 あえてその超近代社会のイメージを描くとしたら、「内なる無限」という言葉で表すことができるだろう。19世紀型近代社会は外へ外へと無限に拡大しようとした。21世紀の超近代社会はそうした外部をもはやもちえない。むしろ、有界な空間内部で無限運動をつづけていく社会になるだろう。
 そうした社会を生きることは独自の感性を必要とする。簡単にいえば、強い自己反省の視線である。(略)「情報技術が社会を変える」というのは一種の自己欺瞞である。けれども、これは別に情報化社会論だけの特徴ではない。あのメタ自己のしくみの動き方ににしてもエコロジーにしても、ある種の自己欺瞞にほかならない。超近代社会はそうした自己欺瞞をつづけながらも、それが自己欺瞞であることにも気づいているような、そんな社会になるだろう。私たちの未来は夢のなかにではなく、むしろ覚醒のうちにあるのだ。

 「私たちの未来は覚醒のうちにある」ーー今に生きるフレーズだな。まだ21世紀の感性はそこまで行っていないか。必要性はますます増しているかもしれない。
 技術の夢について…

 社会のしくみを選択するには、そうした矛盾を生きていかざるをえない。その苦々しさから逃れる最も簡単な手段は、技術決定論へ逃げ込むことだろう。(略)社会の内部でもあり外部でもあるような技術をもちだせば、選択の自由の幻想と責任からの免除を同時に手に入れることができる。実際、「情報化社会」という夢の魅力はそこにあった。
 けれども、その夢のなかにいるかぎり、私たちは本当は情報技術にも社会にもけっして出会えない。たんに近代産業社会の内部でまどろんでいるだけである。もちろん、まどろむことを倫理的に悪だと決めつけることはできない。みずからが住む社会のしくみを反省するのはけっして容易な作業ではない。それは安楽な擬似世界(ヴァーチャルワールド)をこわすことであり、正気のまま狂うことともいえよう。それよりは、AI的なアナロジーのなかで先端技術と社会の双方をわかったつもりになっている方が、はるかに楽しいだろう。あるいは、先端技術マニアとしてサイバースペースの夢を追いかけている方が、はるかに楽だろう。
 それに対して私が提示できるのは、やはり一つの問いかけだけである。それだけであたなは満足していられるのか、その安楽な夢だけであなたは十分なのか、と。技術は神ではない。技術が人間を救済することはできないのだ。「機械仕掛けの神」はもういない。人間を救済できるものがいるとすれば、それは人間自身なのだ。そのことから目を逸らして一体なにを見ようというのか、と。

 鋭いなあ。このあたりは、いくら情報技術の環境が変わっても、15年前でも今でも、変わらない命題だな。続いて、こんなフレーズが出てくる。

 そんな21世紀社会の選択のありさまに思いをこらした時、コンピュータの魔力の最後の一片が見えてくる。コンピュータというのは実は、近代社会の人間が自己を映しだす鏡なのだ。
 およそ500万年前に人類は誕生したといわれる。それから後、人類はつねに孤独であった。神や自然といった表象にしても、近代社会では自分たちの社会の内部イメージにすぎなくなる。コンピュータは、そうした孤独を生きる近代人がつくりだした、新たな「他者」なのである。その「他者」の鏡を通じて、私たちは私たち自身の姿を反省しようとしているのだ。AI的アナロジーが人々の心をくすぐりつづけてきたのも、本当はそのためなのだ。そこで問われているのは、実は人間自身の姿にほかならない。

 そうだなあ。そして…

 コンピュータをめぐる過剰な思い入れと過剰な反感。それは近代の孤独な人間が自分自身にいだく愛憎の逆像なのである。さらに残酷なことに、そのこと自体に人間はやがて気づかされてしまう。自己欺瞞とともに生きていく自己をも、さらには、コンピュータが本当の他者ではないからこそ安心してそこに「他者」を見ている自己さえも、そのなかに見出させられてしまうのだ。それもまた近代を生きる人間の宿命である。

 読ませるなあ。そして、考えさせられる。Facebookとか、iPhoneとか、道具立ては変わっても、情報技術と社会をめぐる本質的な論点は変わらない。その意味では古くはなっていない本でした。
【追記】
 あとで、気が付いたら、2010年に『社会は情報化の夢を見る』というタイトルをメーンに大幅に増補した文庫版が出ていた。読んだのは1996年版の方。2010年・新世紀版も読んでみるかなあ。