寺田寅彦『科学者とあたま』

 寺田寅彦のエッセイは面白い。出発点は、こんな話。

「科学者になるは『あたま』がよくなくてはいけない」これは普通世人の口にする一つの命題である。これはある意味ではほんとうだと思われる。しかし、一方でまた「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」という命題も、ある意味ではやはりほんとうである。

 というわけで、「科学者とあたま」について考えているのだが、これがウィットに富んでいて面白い。様々なフレーズが出てくる。 例えば...

 いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、途中の道ばたにあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。頭の悪い人足ののろい人がずっとあとからおくれて来てわけもなくそのだいじな宝物を拾って行く場合がある。

 当たっているなあ。そして...

 頭のいい人は見通しがきくだけに、あらゆる道筋の前途の難関が見渡される。少なくとも自分でそういう気がする。そのためにややもすると前進する勇気を阻喪しやすい。

 大企業のエリートビジネスマンの集団から新規事業が創造されない理由も同じところにあるなあ。

 頭のよい人は、あまりに多く頭の力を過信する恐れがある。その結果として、自然がわれわれに表示する現象が自分の頭で考えたことと一致しない場合に、「自然のほうが間違っている」かのように考える恐れがある。まさかそれほどでなくても、そういったような傾向になる恐れがある。

 これまたビジネスの世界でも起きるなあ。頭のいいビジネスピープル、頭のいい官僚が陥りかねない過ちかもしれない。

 頭の悪い人は、頭のいい人が考えて、はじめからだめにきまっているような試みを、一生懸命につづけている。やっと、それがだめとわかるころには、しかしたいてい何かしらだめでない他のものの糸口を取り上げている。そうしてそれは、そのはじめからだめな試みをあえてしなかった人には決して手に触れる機会のないような糸口である場合も少なくない。自然は書卓の前で手をつかねて空中に絵を描いている人からは逃げ出して、自然のまん中へ赤裸で飛び込んで来る人にのみその神秘の扉を開いて見せるからである。

 これも深いなあ。科学の世界を語りながら、それ以外の世界でも通用しそうな気がする。特に知価社会といわれるくらい、知的資本が重要になっている時代には、この重要性は増しているのかも。現場が大切なのだな。

 頭のいい人には恋ができない。恋は盲目である。科学者になるには自然を恋人としなければならない。自然はやはりその恋人にのみ真心を打ち明けるものである。

 ロマンティックな表現だなあ。そして...

 頭のいい人は批評家に適するが行為の人になりにくい。

 今も昔も、ここに問題があったのだなあ。耳が痛い。

しかしもういっそう頭がよくて、自分の仕事のあらも見えるという人がある。そういう人になると、どこまで研究しても結末がつかない。それで結局研究の結果をまとめないで終わる。すなわち何もしなかったのと、実証的な見地からは同等になる。そういう人はなんでもわかっているが、ただ「人間は過誤の動物である」という事実だけを忘却しているのである。

 これは、頭がよすぎる人の問題だなあ。頭がよすぎて、というか、先を読みすぎて、結局、何もできないままに終わってしまう。よくあるんだなあ、組織では。

 頭がよくて、そうして、自分を頭がいいと思い利口だと思う人は先生にはなれても科学者にはなれない。

 このパターン、「官僚にはなれても起業家にはなれない」「批評家にはなれても芸術家にはなれない」とか、いくつかバリエーションをつくれそうだなあ。
 いまの世の中、「頭のいい人」はいるんだけど、前に進まないという感じで、このエッセイを読んでいると思うところが多いのだが、寺田寅彦がこれを書いたのは昭和8年。戦前の閉塞感も同じだったのだろうか。当時も「頭のいい人」はたくさん、いたんだろうなあ。身の回りにいる具体的な人たちを念頭に置きながら、このエッセイを書いていたのだろうか。

寺田寅彦随筆集 (第4巻) (岩波文庫)

寺田寅彦随筆集 (第4巻) (岩波文庫)

※ 「科学者とあたま」は、この随筆集に収録されている様子