岡田武史、羽生善治『勝負哲学』

勝負哲学

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 前のワールドカップ南アフリカ大会で日本をベスト16に導いた岡田監督と将棋の羽生善治名人の対談。サッカーと将棋、チームプレイと個人競技、ピッチと盤面と舞台は違っても、勝負の機微は合い通じるものがあり、面白かった。スポーツで言うゾーンは、羽生の言葉で言うと「玲瓏」という状態なのだ。共通した神の領域があるのだなあ。
 岡田監督のまえがき、羽生名人のあとがきに挟まれて、章の構成は...

1章 勝負勘を研ぎ澄ます
2章 何が勝者と敗者を分けるのか
3章 理想の勝利を追い求めて

 「データは自分の感覚を裏づける情報でしなかい」とか「防御は確率論で相当程度カバーできる」とか「一定水準まではデータ重視で勝てる。しかし、確率論では勝ち切れないレベルが必ずやってくる。そうして、ほんとうの勝負はじつはそこからだ」とか、岡田監督の話はサッカー論としても経営論としても通用しそう。
 一方、このテーマでは羽生名人からはこんな言葉。

 プロの棋士は何百手も先まで読んで最善の手を指す−−将棋指しに対して、そんな超人的なイメージを抱いている人が少なくないようですが、それは「美しい誤解」にすぎません。実際には十手先の局面の予想さえ困難なんです。

 そうなんだ。たしかに一つの局面の指し手は平均80通りぐらいあるといわれ、そうなると、十手先といえば、6万通りの手になってしまうという。で...

 少なくとも実戦においては、「論理」には思っている以上にはやばやと限界が来るんですね。おっしゃるとおり、理詰めでは勝てないときが必ず来ます。でも、ほんとうの勝負が始まるのはそのロジックの限界点からなんです。

 羽生、岡田両氏ともデータ重視の論理派とみえるだけに、こうした言葉は面白い。
 このほか、プレッシャーとの戦い方、闘争心、集中力など、勝負強さに関する様々なテーマが語り合われて、どれもこれもアンダーラインを引きたくなる言葉でいっぱい。
 最後に、羽生名人からは、こんな怖い話も...

 私も実際、対局中、あまりにも深く集中したために、「これ以上集中すると、もう元へは戻れないんじゃないか」という恐怖感に襲われたことがあります。将棋にはそういう怖いところがあるんです。度外れた集中力が狂気のレベルまで接近してしまうことが。だから私自身、集中力のアクセルを野放図に踏むのをためらっている部分もあります。

 頭脳の集中力...学問でも芸術でも、これと同じ世界があるのかもなあ。怖〜。

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