津野海太郎 『花森安治伝−−日本の暮らしをかえた男』

花森安治伝: 日本の暮しをかえた男

花森安治伝: 日本の暮しをかえた男

 「暮しの手帖」を創刊した花森安治が「ぜいたくは敵だ」という戦時を代表するキャッチコピーをつくった人だということは知っていたが、それが「暮しの手帖」へどうつながっていくのか、ということを考えたことはなかった。戦前・戦中を広告の人として生きてきたことも知らなかった。大政翼賛会にいたことも知らなかった。その人が「暮しの手帖」という広告とは対極のメディアをつくることになったのか。戦前・戦中のことを忘れて生きる人が多かった中で、「執行猶予された戦争犯罪人」の意識を持って、その後はおもねることもブレることもなく生きたことを知る。その強い意思が「暮しの手帖」という雑誌の背骨だったのか。
 日常の「暮らし」を愛し、守ることが、戦争に対する抵抗力になるという思想が、あの雑誌を支えていたのだ。その思想に、花森安治の卓越した編集力が加わって、「暮しの手帖」を100万部雑誌にしたわけか。雑誌だけでなく、商品テストの施設を自前で持ったり、これはもう「運動」といっていいんだろうな。ただ、この手のことがともすると官製運動になりがちになるところを(国や企業のカネに依存するところを)プライベートで、自立した活動にしていったところが、すごい。その実現には強烈な個性が必要だったろうと思うが、一緒に働くのはしんどいだろうなあ(編集部の風景を読んでいても、しんどそう)。でも、やっぱり、すごい。
 筆者のあとがきに、こんな一節がある。

 ともあれ、あの戦争の下で若い花森は消し去ることのできない大きなまちがいをおかした。私がそう考えるというのではない。花森自身がそうはっきり自覚していた。
 まちがったあとも人は生きる。生きるしかない。そこでなにをやるのか。日本人の暮らしを内や外からこわしてしまう力、具体的にいえば戦争と公害には決して加担しない。できるかぎり抵抗する。それがいちどまちがった花森のあらためてえらんだ道すじだった。
 戦後の花森安治は政府や政党や大企業や大学などの組織をいっさい信用しなかった。国家や革命運動を排他的にささえる「主義」に加担することも意識して拒んだ。そして、じぶんがきたえたごく少数の編集部員とともに『暮しの手帖』という砦にとじこもり、あとはもうブレることなく、終生、この未知を歩きつづけた。おどろくべき持続力である。こんな編集長、かれのほかにはいなかった、というのはそういう意味である。
 人間はかならずまちがう。まちがって終わりというわけではない。まちがったあとをどう生きるか。そこにその人間の生地があらわれる。花森の時代も私の時代もそうだった。これからもきっとそうだろう。

 うーん。花森の生き方は現代にも通じる問いかけになるのだな。自分はどうなんだ、という。重いです。
 最後に、目次で、内容をみると...

序 『暮しの手帖』が生まれた街
第1部
 第1章 編集者になるんや
 第2章 神戸と松江
 第3章 帝国大学新聞の時代
第2部
 第4章 化粧品で世界を変える
 第5章 北満出征
 第6章 ぜいたくは敵だ!
 第7章 「聖戦」最後の日々
第3部
 第8章 どん底からの再出発
 第9章 女装伝説
 第10章 逆コースにさからって
第4部
 第11章 商品テストと研究者
 第12章 攻めの編集術
 第13章 日本人の暮らしへの眼
 第14章 弁慶立ち往生

 もし、時代が違って、戦争を「宣伝」するような仕事に携わる運命にはならなかったら、花森安治は『暮しの手帖』ではなく、トレンディなスタイル雑誌のクールな編集長なり、時代の最先端を走る広告クリエイターなりになっていたんだろうか。それとも、公害なり、震災なり、原発事故なり、何かをきっかけに、自分が「宣伝」するものに疑問を持つことになったのだろうか。そんなこともちょっと考えてしまった。