津野海太郎 『したくないことはしない−−植草甚一の青春』

したくないことはしない

したくないことはしない

 1970年代、「ファンキーじいさん」と呼ばれた散歩の達人にして、ジャズ、映画、ミステリーなど欧米の最先端カルチャーの水先案内人、植草甚一。この不思議な老人がどのようにして生まれ、育ち、あのような現代の仙人となっていったかを、植草甚一ブームのきっかけをつくった数々の本の編集者でもある津野海太郎が追っていく。日本橋の商人の子として生まれたが、関東大震災によって家は没落。一高の入試に失敗して東大(東京帝国大学)への夢は破れ、早稲田に入るが、演劇など前衛芸術に入れ込んで落第。友だちのつてで映画業界に潜り込み、戦前・戦中と東宝に務めたが、戦後、東宝争議の際に退社。その後はフリーランスの道を歩むが、ずっと不遇だった。
 浮世離れした仙人のようなイメージがあったのだが、現実には苦労しているし、生活に余裕があるわけでもなかったんだなあ。映画を見て、ジャズを聴いて、洋書や洒落た雑貨を買ったりしながら散歩してというオールド・シティボーイという雰囲気だったけど、有閑階級というわけでもなかったし、戦前の旧制高校を中心とした正統派の教養にコンプレックスを持っていたりもしたのが意外だった。下町と山の手、商人とビジネスマン、もろもろの意識の壁もあったのだなあ。
 読んでいて面白かったのは、大正時代、第1次大戦の戦争景気のなかで日本にはバブル経済化し、消費社会が生まれていたのだな。大正デモクラシーの気分も、そうした好況から生まれてきたのかもしれない。しかし、東京で生まれた都市と消費は、関東大震災で消えてしまい、敗戦で決定的に崩壊する。この大正・消費都市文化の気分が植草甚一をつくったのだな。そして、1970年代、再び消費社会、都市文化の時代を迎えた時に、植草ブームが来たのか。時代が育て、時代がスターにしたんだなあ。
 おしゃれなファンキーじいさんのイメージも、大病の後、体重が減ったために生まれたところがある。壮年期の植草甚一の写真も出ているが、この頃はスーツを着た恰幅のいい紳士。ヒッチコックみたいな感じ(植草甚一は口ひげをはやしているが)。それまでマイナスだったことが晩年にはオセロのようにプラスに変わったんだなあ。
 ただ、植草甚一が紹介したかったのは「海外の新しい小説」だったという。空襲のさなかにも洋書を読んでいた。収入が乏しくても、本を買い続けていた。一筋だったのだなあ。壮年期は鬱屈して、かなり難しい人物だったというが、最後の最後に時代が回ってきた。人生、ふしぎなもんだなあ。しかし、貫いたから、輝けたのだろう。
 目次で内容を見ると...

 序  買物をするファンキー老人
第1章 下町の商人の息子
   1 日本橋小網町
   2 勉強中毒になった
   3 関東大震災
   4 姉の力
第2章 前衛かぶれ
   5 落第と左傾
   6 アヴァンギャルド芸術の時代
   7 建築か演劇か
   8 グレる
第3章 銀座のモダン青年
   9 映画業界へ
  10 銀ブラ・ダンディズム
  11 本さがしの達人
  12 東京大空襲
第4章 第二の青春
  13 憂鬱な中年期
  14 老年の祭り

 植草甚一を知ると同時に、彼が生きた時代の文化史としても楽しめる魅力的な評伝だった。
ぼくは散歩と雑学がすき (ちくま文庫) ワンダー植草・甚一ランド 植草甚一自伝 (植草甚一スクラップ・ブック)