- 作者: 高良倉吉
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1993/01/20
- メディア: 新書
- 購入: 3人 クリック: 50回
- この商品を含むブログ (19件) を見る
しかし、琉球王国までさかのぼって、琉球の視点から見ると、日本(本土)には軍事的に制圧され、編入されたということになりそう。スコットランドに英国連邦からの独立論があるように、沖縄に琉球独立論が出てくることは不思議じゃないなあ。尖閣列島にしても日本でも中国でもなくて、琉球の土地だと主張したりして。平和憲法の日本への復帰を沖縄の人々が望んだのはわかるが、平和憲法も投げ捨て、基地を押し付けるだけの日本になったとしたら、琉球として生きるほうがいいんじゃないかという議論が出てきても不思議ではない。といっても、経済的に独立できるかどうかという議論はあるだろうけど、議論としては出てきてもおかしくないような気もする。
語られているのは、古琉球の歴史だが、読んでいるうちに、そんなこんな、いろいろなことを考えてしまう本。
ちなみに、目次で内容を見ると...
序 章
第1章 「王国」の発見
1.沖縄研究の先達
2.「河上肇舌禍事件」
3.独自性の原点とは
第2章 古琉球の時間
1.変革の時代がはじまる
2.王国への道
3.尚真王の時代−−王国の確立
4.変動の時代へ
第3章 アジアのなかの琉球
1.開けた活動の場
2.海外貿易の条件
3.琉球史の可能性を求めて
第4章 辞令書王国
1.辞令書の再発見
2.何が映しだされるのか
3.記述形式が示すもの
第5章 「王国」の制度を探る
1.さまざまな官人たち
2.ヒキとは何か
3.軍事防衛体制と庫理・ヒキ制度
終 章
1.古琉球が提起するもの
2.自己を回復するために
第4章は歴史考証的には重要なんだけど、ちょっと専門的で飛ばし読みしてしまった。第1章から第3章にかけて、特に「アジアのなかの琉球」が面白い。琉球もまた海洋国家だったのだ。中国に進貢していたこともあり、中国貿易でも優遇されていたという。日本と中国が接するところにいたわけだなあ。
で、印象に残ったところをいくつか抜書きすると...
1368年に成立した明王朝は、諸外国に対して冊封・進貢政策とでも称すべき対外姿勢をうち出した。明の皇帝がその権威において諸外国の王の地位を安堵すると(冊封)、冊封をうけた諸外国の王は文書・貢物を使者にもたせ皇帝への忠誠を示す(進貢。朝貢ともいう)。こうした従属的な外交関係を諸外国に結ばせることによって、皇帝を頂点とする世界秩序、すなわち冊封体制づくりをめざしたのであった。この政策のポイントの一つは、冊封・進貢関係をもたない国々の船舶の中国入域を認めなかった点にあり、当時中国沿岸を荒らしまわっていた倭寇・海寇などの武装民間貿易勢力を排除しようとする意図をふくんでいた。
進貢には貿易という実利があったわけで、琉球王国も、この冊封・進貢体制の中に入る。室町時代、日本の足利政権も冊封・進貢をしていた。中国から見れば、日本と琉球が2つの国があったということになるのだろうか。
この本には、琉球王国交易ルートという地図が出ているが、それを見ると、日本の堺、韓国の釜山から出た海上ルートは那覇を中継地に、中国の福州、広東、ベトナムの安南、タイのアユタヤ、パタニ、マーレシアのマラッカ、インドネシアのパレンバン、アチェなどにつながる。東シナ海から南シナ海に至るまで、琉球の船が走っていたのだなあ。しかし、航海技術おの進化とともに、中継地としての役割は低下していったのだという。アジア直行便が出てしまったわけだな。
琉球は、幕藩体制下の日本の中で異国であったという。そして「琉球処分」について...
日本における廃藩置県(1871年)は、それまで大名が支配してきた各藩の土地・人民を天皇にお返しする「版籍奉還」(1869年)を前提に実施されたが、琉球国王の場合は天皇から土地・人民の支配権を授けられたことはなかったので、「版籍」を天皇に「奉還」する必要はなかった。したがって、沖縄県設置について琉球側が頑強に反対し、また、琉球に対する宗主権を盾に中国側が強く抗議する状況のなかで、明治国家としては軍隊・警察官を本土から動員し、力ずくで首里城のあけわたしを迫る行動に出るしかなかった。もし、近世の270年を通じて王国が完全に日本の「国内」的存在に編入されていたのであれば、このような紛糾した事態は起こらなかったであろう。沖縄県設置をめぐって、琉・日・中三者がもめたのは、近世の琉球王国が「幕藩体制下」に編成されていながらも、反面ではまた、それを相対化するほどの「異国」として存在しつづけてきたことに原因があったといわなければならない。
歴史を振り返れば、日本と沖縄(琉球)は複雑な関係にあるのだなあ。そして、こんな文章...
王国体制下にあった土地は、からだ半分が近世初頭の島津侵入事件によって、残りのからだ半分が近代初頭の琉球処分によって、いずれも強制的なかたちで日本の国家体制に編成され、その結果として日本社会の一員となった地域であった。この日本社会への編成のあり方を、根底において規定したところのものが、それ以前の古琉球において形成された琉球王国だったのである。
琉球王国を知ることは、沖縄のアイデンティティを知ることにもなっていくのだな。そして、近世・近代日本(本土中央政府)が琉球に何をしてきたかを知ることにもなる。その延長線上で現代を見た時、基地問題などは本土の沖縄に対する圧政として、ヤマト・琉球関係に変わりはないという話になりかねない問題を含む。普天間問題などについて、「沖縄処分」に代表される歴史的な感情を知ることの重要性を指摘する人がいたが、その意味がわかってきた。
こんな一節もある。
各種の世論調査によれば、復帰はしたものの、復帰の年から1977年までの5年間は、復帰してよかったと答えた沖縄県民は5割程度しかいなかった。しかし、現在では大多数の県民が復帰してよかったと答えるまでになっている。県民の大多数が「日本」復帰を希求し、県民の大多数がやがてその結果に満足したとすれば、歴史家は、この県民世論を背景に歴史像を再構成する義務を負うべきだ。沖縄が現在「日本」に属すことを前提にしつつ、では、なぜ「日本」に属するのか、属すとなればいかなる「日本」像を目標とするのか、といった基本的命題を、歴史の責務としてひきうけることである。
重い問いかけだなあ。この本は1993年初版だが、今になると、この言葉はさらに重さを増す。今も沖縄県民は日本に属していることに満足しているのか。騙されたと思っているのか。中国も日本も互いに挑発的な態度をとり、チキンゲームを繰り広げ、偶発戦争の危険性さえ囁かれているが、そのとき、戦場になるかもしれないのは琉球の海なわけだし...。