藤原岩市『F機関』を読んで−−アジア解放を夢見た日本の「アラビアのロレンス」

F機関‐アジア解放を夢みた特務機関長の手記‐

F機関‐アジア解放を夢みた特務機関長の手記‐

 F機関の「F」は、フリーダム、フレンドシップ、フジワラ。副題に「アジア解放を夢みた特務機関長の手記」とあるように第二次大戦の際に、インド国民軍を創設し、インド独立を工作する一方、マレイ、スマトラインドネシア)などの民族解放運動を支援した陸軍・特務機関将校の手記。欧米の植民地支配からアジア民族を解放する−−その大義に信念と情熱を持って臨み、さまざまな民族から信頼を得て、独立運動を動かすのだが、日本の軍人がすべて、そう思っていたわけでなく、八紘一宇は建前で、他民族を蔑視し、帝国の拡大しか考えていないような者もいる。第一次世界大戦でアラブの反乱を起こした「アラビアのロレンス」のように、植民地からの解放・独立を目指す民族と、本音では戦争勝利のための道具としか見ていない本国政府・軍部との板挟みになっていく。日本にも、こういう人がいたのだなあ。
 手記の中では、辻政信が指令したといわれるシンガポールでの華僑虐殺事件も「遺恨!華僑弾圧」として描かれている(藤原氏は辻の名前をあげてはいないが)。戦後、藤原氏は、この事件に絡んで尋問を受けたりもしている。本人は無関係で済んだが、辻政信が失踪したことで、身代わりに、命令を実行させられた将官たちが戦犯として処刑されることになる。辻はインド人、マレー人、インドネシア人の民族解放運動にも無理解だったようだ。陸軍といっても、ひとつではないのだろうが、戦争のために手段を選ばない軍官僚のために、日本は今になっても癒えない大きな痛手を被ったのだなあ。シンガポール建国の祖で、アジアの賢人といわれるリー・クアン・ユーは、この華僑虐殺事件の難を逃れた人で、自伝などを読んでも、必ず、この話が出てくる。国策としては日本を見習いながら、日本人は信用できず、アジアの盟主にはなれないと言うこともある。
 この手記、日本として恥ずべき問題もきちんと書き残しているところが、藤原氏の誠実さの証であり、だから、英語など言葉はできなくても、現地の人たちからの信用を得ることができたのだろうと思わせる。第二次世界大戦秘史としての面白さと同時に、藤原氏の人間としての凄さも見えてくる本。
 で、印象に残ったところを抜書きすると...
 F機関を率い、現地に乗り込むにあたって部下を集めた決意表明のくだり...

「敵味方を超越した広大な陛下の御仁慈を拝察し、これを戦地の住民と敵、特に捕虜に身をもって伝えることだ。そして敵にも、住民にも大御心に感銘させ、日本軍と協力して硝煙の中に新しい友情と平和の基礎を打ち建てねばならない。われわれはこれを更に敵中に広めて、味方を敵の中に得るまでに至らなければならぬ。日本軍は戦えば戦うほど消耗するのではなくて、住民と敵を加えて太っていかなけくてはならない。日本の戦いは住民と捕虜を信じ自由にし、幸福にし、また民族の念願を達成させる正義の戦いであることを感得させ、彼らの共鳴を得るのでなくてはならぬ。武力戦で勝っても、この思想戦には敗れたのでは戦勝を全うし得ないし、戦争の意義がなくなる。なおこの種の仕事に携わる者は、諸民族の独立運動以上にその運動に情熱と信念とをもたねばならぬ。そしてお互いは最も謙虚でつつましやかでなくてはならぬ。大言壮語したり、いたずらに志士を気取ったり、壮士然としたりすることは厳に慎まねばならぬ。そんな人物は大事を成し遂げ得るものではない。われわれはあくまで縁の下の力持で甘んずべきだ。われわれは武器をもって戦う代わりに、高い道義をもって闘うのである。われわれに大切なものは、力ではなく信念と至誠と情熱と仁愛とである。自己に対しても、お互いはもちろん、異民族の同士に対しても、また日本軍将兵に対してもそうでなければならぬ。そしてわれわれは絶対の信頼を得なければならぬ。最後に、お互いは今日から死生を共にする血盟の同志となり、君国のために働こう」

 これだけの信念を持った人がどれだけいたのかなあ。「武力戦で勝っても、この思想戦には敗れたのでは戦勝を全うし得ない」−−これがわかっていた人がどれだけいたのか。ある意味、日本の行く末を予言することになってしまったなあ。「大言壮語したり、いたずらに志士を気取ったり、壮士然としたりすることは厳に慎まねばならぬ。そんな人物は大事を成し遂げ得るものではない」−−これって今の政治家や官僚の基質にも受け継がれているなあ。幕末・明治維新の「志士」「壮士」イメージがずっと残ってしまっているのかもしれない。形で真似する人が絶えないんだなあ。
 変わって、インド独立運動の人々からの疑問と、その答え...

 それは、朝鮮や台湾における植民地政策と満州及び支那における日本の軍事行動や政策を侵略的だ見る傾向が多く、日本がインド人の眼に好戦的かつ侵略的性格に映っていることを指摘した。また、支那における日本軍将兵の一般民衆に対する略奪、暴行、残虐行為についても重慶側や英米側の報道を例証として遺憾の意を表した。日本政府の宣伝と実際の行動が一致していない印象を受けることに関しても忠告してくれた。インド人は支那人に比して、この種の政策や軍事行動や、非道の行為に対する憎悪の感情が一段と強いことを強調した。私はそれらの宣伝が悪意に基いて、作為的に誇張されているところが多いことについて注意を喚起した後、私見として日本が朝鮮や台湾においてとっている植民地政策や満支における従来の政策なり軍事行動が批判と是正の余地の大なることを率直に認めた。また、支那における日本軍将兵の一部のものの非道の行為についても否認できないことを認めた。しかし、日本とくに陛下の大御心は、東亜の諸民族がすべて解放されて自由と平等の立場において相提携し、東亜の平和と繁栄を築くことを念願しておいでになることを説明した。また支那に対する政策や一部将兵の非道の行為についても、南京陥落後は大御心にそって是正されつつあることを強調した。近衛声明の理念を例証し、また「派遣軍将兵に告ぐ」と題する畑司令官のパンフレットの内容を説明した。私は日本民族の伝統的美点についても数々の例証を挙げてプ氏(プリタムシン氏)の理解を要望した。東亜新秩序を主義しつつある日本も、また必然的に自己の省察と改造を促されつつありと信ずる私の所懐を、彼は心よく聞き入れてくれた。

 これが正しい歴史認識なんじゃないだろうか。中国の日本軍の非道について、連合軍による「誇張」はあったとしても、何もなかったとは言えないし、日本に反省の余地がなかったといえば、そんなことはない。言うことはいい、自国の美点についても語り、一方で、自分たちの過ちについては率直に認めるから、信頼を得られるのだろう。シンガポールリー・クアン・ユーも信用しない理由として、日本人は一度も謝らないと語っていた。そもそも、こうしたインド人の疑問や苦言を静かに聞き、さらに日本人としての誇りを失わず、過ちは過ちとして認め、主張すべきところは主張したから、藤原氏は信用されたのだろう。結局は人間力が問われるのだろうなあ。
 最後の方に出てくる「派遣軍将兵に告ぐ」というパンフレットとは別のものかもしれないが、北支那方面軍の「国民政府の参戦と北支那派遣軍将兵」という小冊子を読んだことがあるが、ここでは、中国・清朝の軍律を引いて「焼くな、殺すな、犯すな」の徹底を全軍に求めている。北支那派遣軍では、上官に対する集団暴行事件が起きたり、軍紀が緩んでおり、軍にとっても将兵の蛮行は問題になっていた様子が伺える。それが占領政策の障害になっていることも認識していたし、東亜の理念を信じる者ほど現実に悩んでいたんだろうなあ。そんなことを感じさせるパンフレットでもあったが、その反省が現代に生きているかどうかというと、生きていない人もいるように思えるところが悲しい。
 藤原氏は、日本軍のマレイ侵攻の際、日本が占領した地域では英国からの解放の象徴として、それぞれの民族の国旗の掲揚を許した。支那人(中国人)が青天白日旗(中華民国国旗)を揚げることも許可した。しかし、これに対して、軍の参謀部から、日本の領土なんだから、日本の国旗を挙げさせろ、という声があがり、結局、その強硬論が勝ってしまう。日章旗と青天白旗の併用を提案するが、それも却下される。実は栄光支配時代も、中国の祝日には青天白日旗の掲揚は許されていた。藤原は「このように感情に捉われた狭量な威圧的態度をもっては到底支那人への宣撫はできないと思った。支那人に対し、私は不信を示すに忍びなかった。私ははっきりとF機関の支那人に対する宣伝協力を断った」と記している。この軍参謀の狭量さがシンガポールの華僑虐殺に発展し、現代に至るまで日本の名誉と信用をケガしているのだなあ。
 で、マレイの独立運動を支援するために、現地の活動家と組織をつくろうとしたときの話...

 当時、軍は現住民の政治、文化、経済上の諸団体を否認する頑迷短見な方針を採ろうとしていた。マレイの戦勝に酔ったのか、あるいは色々の団体名義で抗日運動を行ってきた支那人の非協力的態度に対する反作用か、そのいずれにしても大東亜諸民族の解放、新秩序の建設、共栄圏の確立等々八紘一宇の崇高な理想を掲げながら、このような無理解の軍政の方針をとる軍の真意は、全く諒解に苦しむところであった。このような背信が、満州において、支那において他民族の信頼を失ってきたではないか。私や私の部下は、詔書や声明に表われた尊い理想に情熱を傾けて、インド人や、マレイ人や、スマトラ人の共鳴を求めてきたのである。私は、到底このような軍の不信に耐え得ない。

 結局、藤原氏は司令官を説得して、マレイ人の文化団体をつくることに成功するが、この理想と現実の乖離がどれほど日本に対する不信をつくったか。大東亜戦争は、アジア民族解放戦争であって、侵略戦争ではないという人が今でもいるが、理念として解放であったとしても、現実の軍政はかなり乖離していて、侵略と思われて仕方のないものだったのだなあ。理念を信じていた人たちほど苦悩していたんだろうなあ。
 シンガポールの華僑虐殺について、藤原氏はIIL(インド独立連盟)のシンガポール支部長のローヤル・ゴーホー氏から知らされる。ゴーホー夫人は華僑だった。そして...

 私は田代氏、米村少尉をはじめ、2、3名の機関員に命じて、その状況を偵察させた。その報告は、ゴーホー氏の訴えに勝る戦慄すべき状況の実在であった。イポー以来、私が心密かに心配していたことが、こんな形になって爆発してしまった。私は早速軍司令部に杉田参謀を訪ねて、これが軍の命令によって行われているのか質した。参謀は安全たる面持ちで、同参謀等の反対意見が退けられ、一部の激越な参謀の意見に左右されて、抗日華僑粛清の断が、戦火の余燼消えやらぬ環境の間にと、強行されているのだと嘆じた。私はこの結果が、日本軍の名誉のためにも、又現住民の民心把握、軍政の円滑な施行の上にも、決して良い結果をもたらさないことを強調した。特に私のインド人(兵)工作に、大きな影響があると指摘して速急に善処を願った。この粛清作戦は翌日一段落となった。しかし無辜の民との分別も厳重に行わず、軍紀裁判にも附せず、善悪混淆数珠つなぎにして、海岸で、ゴム林で、或はジャングルの中で執行された大量殺害は、非人道極まる虐殺と非難されても、抗弁の余地がない。たとえ、一部華僑の義勇軍参加、抗日協力の事実をもってしても。後日、ビルマ戦線に転戦した第18師団の若い将校が、私に、ジョホールバルで、同師団が強行した華僑粛清の寝ざめの悪い、無惨な思い出を語って、心が痛むと漏らした。

 日本軍はナチスと違うというけど、この所業はナチスと変わらない。シンガポールは中国のように声高に日本を責めないから、この事件も知っている人のほうが少ないのではないか。ここで出てくる「激越な参謀」は辻政信のことだろう。辻は戦後、失踪し、ほとぼりがさめたころに世の中に現れ、失踪中の話を『潜行三千里』という本に書いてベストセラー作家となり、あろうことか、国会議員になる(選んだ方も選んだほうだけど)。しかし、その失踪期間中には...

 戦後、チャンギー監獄のBブロックに、私と共に収監されていた、第5師団歩兵長河村少将(シンガポール警備司令官)、近衛師団長西村中将、第18師団長牟田中将、憲兵隊長大石大佐は、何れも、軍命令による督励を受けて、この粛清作戦に当った指揮官であった。筆者も、英軍将校から、この粛清作戦について、何回か、尋問を受けたが、軍司令部の内情を知らない私としては、応える術もなかった。筆者は、これ等の方の多くが、本作戦を計画し、命令した軍の責任者(何れも当時消息不明)の身代わりになって、鬱々悶々の情と悲憤を殺しつつ、慫容、絞首台の13階段を昇って行かれた、あの時の悲痛な光景が、いつまでも、私の脳裏から消えない。

 辻は、このシンガポール華僑虐殺事件だけではなく、ノモンハンガダルカナルインパールにも関係している。敵よりも味方の犠牲のほうが多いんじゃないかと思いたくなることもある。
 藤原氏は、インド独立派の人々からの信頼を最後まで裏切ることなかった。日本とともに戦ったIIL(インド独立連盟)将兵が英軍の軍事裁判にかけられた際、藤原氏はインド側証人として召喚され、悩んだ末に応じる。その時の話...

 この間、私の最もわびしく思ったことは、次のことであった。そもこの工作は、軍はもちろん、国を挙げて展開された工作である。汪精衛工作に匹敵する大工作であった筈である。しかるに終戦、戦犯追及がささやかれるようになると、分けて私がこの度の召喚に接してからは、軍中央関係者の誰一人として、国のため、進んでその責を負い、わが国の本工作に対する所信を明らかにしようとする人士が見られなかったことである。のみならず、この工作は一少佐の藤原がやった仕事だと云わんばかりに、かかわりを回避するかの冷たい風さえ看取れた。後述のインド側のチームワークのとれた毅然たるそれと、思い較べて感なきを得ない。

 一人でも自ら責任を負う人がいたことで、日本の信用が守られたのかなあ。一人でやった工作ではないが、その一人がいなかったら、成功しなかった工作でもあったのだろうなあ。
 そして、この本の中には、こんな一節も...

 それにしても、何れの時代、何れの国においても、この種の民族工作にたずさわる者が、本国軍と現住民の板挟みに遇って、苦悩することは共通の宿命のようである。その端的な事例を英本国の無理解に苦しんだアラビアのローレンスに見るのである。

 藤原氏が亡くなったのは1986年。デビッド・リーン監督の「アラビアのロレンス」は見たのかなあ。ロレンスの苦悩を最も理解していた日本人は藤原氏かもしれない。
 ともあれ、アジアに一人の日本男子あり、という爽快感と同時に、日本の組織のダメダメさとグローバル経営の下手さを教えてくれる本。