ハンナ・アーレント

 ハンナ・アーレントが、イスラエルによるアイヒマン裁判についてレポートした「イェルサレムアイヒマン」をニューヨーカー誌に執筆したことによって生じた波紋を描く。真実を語ること、真実を求めて思考することの難しさ、苦しさが描かれる。アーレントは、アイヒマンを普通の人間と考え(異常者でも、狂信者でもなく、単なる小役人。そんな小役人が事務的、効率的に組織的な大量殺人に邁進したことが恐ろしいのだが)、ユダヤ人評議会のナチス協力を指摘したことで、ユダヤ人社会から孤立し、激しい批判を浴びる。その話は知っていたが、映画の形で見ると、どれだけ厳しい状況だったかがわかる。集団的な感情、正義感から離れて、真実を語ることがどれだけ難しいかを語るとともに、恩師であり、愛人であったともいわれるハイデガーの対ナチ協力の回想を通じて、最高水準の知性を持った人でさえ、ナチスに飲み込まれていったことも描く。何が善で何が悪かを自分の頭で考え、しかも、その考えを公にすることは大変なことだけど、その勇気を失った時に何が起こるのか。いろいろと考えさせられる映画です。
 しかし、この映画が日本でヒットしたというのも不思議な気がする。個人が確立しているといわれる米国でさえ、世の常識と違うことを発言すれば、友人まで失い、孤立する。空気を読まないことすらネガティブに捉えられる日本では、どれだけ難しいか。毒舌家といわれていても、テレビに出るような人は、反対の意見をいうことで自分のキャラをつくるか、それ以上に、どこまで言っても許されるかを計算しているし、極論に見えて、それが世の中の本音だったりする。真実を語るということとは別の世界だったりする。そんな日本にあって、アーレントをどう見るのか。自分にはできそうもない勇気を見て、すごいな、と思うのか。
 アイヒマンにしても、イェルサレムの法廷の実写が出てくるが、そこで語られる「命令されたから」「あの時代には仕方なかった」とでも言うような論調は、日本の戦争犯罪についても、よく語られる論法だし、その弁解に共感、同意しているところがある。見ている人たちは「悪の陳腐さ」「凡庸な悪」をどう考えているのだろう。自分の内側に「凡庸な悪」があることを感じて、ぞっとするのか、それても、自分以外はみんな、「凡庸な悪」と見ているのだろうか。この映画をみんな、どういう感覚で見ていたのだろう。団塊世代を中心に受けたらしいけど、どういう感覚で見ていたのだろう。ハンナ・アーレントは哲学者として人気があったから、その流れだろうか。若き日を思い起こしているのだろうか。
 監督のマルガレーテ・フォン・トロッタフォルカー・シュレンドルフの前夫人。シュレンドルフと共同で監督した「カタリーナ・ブルームの失われた名誉」が監督デビュー作だという。フィルモグラフィーを見ると、「ローザ・ルクセンブルク」などという名前も見える。出演陣では、ハンナ・アーレントの若いころを演じたフリーデリーケ・ベヒト(FRIEDERIKE BECHT)が清楚で知的な美人。アーレントは若い頃は美人で知られたというから、そういうことか。ベヒトは「愛を読む人」にも出演していたらしい。
 で、アーレントの『イェルサレムアイヒマン』は読んだことがあって、そのメモはこちら。
ハンナ・アーレント 『イェルサレムのアイヒマン』に関する雑駁な読書メモ - やぶしらず通信
イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告

イェルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告


 映画には「ニューヨーカー」の伝説的な編集長、ウィリアム・ショーンも登場する。カリスマ編集長とあって、この人に関する本もいろいろとある。参考に。
「ニューヨーカー」物語―ロスとショーンと愉快な仲間たち

「ニューヨーカー」物語―ロスとショーンと愉快な仲間たち

「ニューヨーカー」とわたし―編集長を愛した四十年

「ニューヨーカー」とわたし―編集長を愛した四十年

Gone: The Last Days of The New Yorker

Gone: The Last Days of The New Yorker