ダンビサ・モヨ『援助じゃアフリカは発展しない』を飛ばし読み;「援助」という国際・貧困ビジネス

援助じゃアフリカは発展しない

援助じゃアフリカは発展しない

 NHKEテレのスーパープレゼンテーションの「中国は今や新興経済国の憧れの的なのか」というダンビサ・モヨのスピーチを聞いて、*1、このアフリカ生まれの女性エコノミストに興味を持ち、著書を読んでみた。忙しかったので、飛ばし読みしたのだが、アフリカからの視点で面白かった。援助は、欧米の同情心を満足させるかもしれないが、アフリカのためにはなっていない。政権を腐敗させ、経済の自立を遅らせる、といった主張。加えて、恩着せがましく、細々と口を出しながら、オカネを出す欧米よりも、資源獲得という野心があるにせよ、どんとインフラ投資にカネを出す中国のほうがアフリカにとっては(その下心に警戒しながらも)ありがたい国ということになる。
 欧米とは異なる視点で語られ、新鮮であると同時に、「人権」よりも「成長」や「経済」(つまりは国民の生活水準向上)を重視する国々が少なくないことを知る。この点は、シンガポールリー・クアンユーも主張していること。まず国民が食えるようになって、それから人権があるという。このあたりを読んでいると、世界では、人権を最上位に置く欧米流の価値観が必ずしも普遍的なものでないんだなあ。「衣食足りて礼節を知る」で、まずは「衣食」という国が少くない。衣食を支えるカネを稼ぐ方法ではなく、ただ無料で衣食を与えることは経済的にも、心理的にも、政治的にも様々な問題を生み出す。
 で、目次で内容を見ると...

第1部 援助が主役の世界
 第1章 援助の神話
 第2章 援助の歴史
 第3章 援助は役立っていない
 第4章 経済成長の無言の殺し屋
第2部 援助がない世界
 第5章 援助依存モデルについてのラディカルな再考
 第6章 債券発行
 第7章 中国人は朋友なり
 第8章 貿易で経済発展
 第9章 貧者の銀行
 第10章 アフリカに真の開発を

 援助批判だけでなく、グラミン銀行によるマイクロファイナンスなど、脱・援助依存へ向けての例も紹介されている。
 ランダムに印象に残ったところを抜き書きすると...

 リベラルな感性の深い奥底には、神聖な考えと妥協を許さない信仰がある。その考え、信仰というのは、金持ちは貧乏人を助けるべきであり、それを実施する方法は援助でなければならないというものである。援助という大衆文化がそのような誤解を強めてきた。援助は娯楽産業の一部となってしまった。メディアに登場する人々や映画スター、伝説的ロック・アーティストは熱心に援助に取り組み、その必要性を訴え、その額が十分でないことを非難し、政府の取組みが十分でないと一喝する。そして政府は支持を失うことを恐れ、また評価されることに必死であるため、それに応えるのである。ボノは援助関連の世界サミットに参加している。ボブ・ゲルドフは(トニー・ブレアの言葉を借りれば)「最も賞賛すべき一人」である。援助は文化的な商品になっている。

 援助はエンターテインメントか...。痛烈な批判だなあ。それでも何もしないよりはいいと思うのだが、こんな一節が続く。

 しかし、過去十年にわたり供与された1兆ドルの援助資金はアフリカの人々を豊かにしたのであろうか。答えは「ノー」である。実際、全世界で援助受入れ国は貧しくなっている。より貧しくなっているのである。援助は貧しい人々をより貧しくさせ、経済成長を遅らせてきた。それにもかかわらず、援助はいまだに開発政策の中心であり、現代の最も大きな主題の一つであり続けている。

 うーん。援助したところで、もう責任を果たしてしまったような気分でいるけど、それが、どんな結果をもたらてしているのか、どのような効果があるのか、検証が必要だったのかもなあ。
 援助信仰の裏には、第二次大戦後、マーシャル・プランが欧州復興で果たした成功体験にあるという。その点については....

 重要なことは、欧州で援助が機能し、欧州のニーズに応えられたとすれば、それが他の地域でも機能しないわけがない、と誤解したことだ。1950年代末までに欧州での復興が確認されるや、それからの関心は、他の地域、とくに援助の文脈ではアフリカに向けられることになる。

 なるほどね。
 援助は、アフリカ諸国の政権の腐敗を生むことにもなった。それに関して、こんな指摘...

 私たちが外国援助について知っていることと、それがいかに腐敗を助長し持続させるかを考えると、西側諸国はなぜ貧しい国に援助をばらまくことにこだわるのだろうか。援助供与の経済的・政治的・道義的動機について先に議論したが、さらに二つの実務的な動機がある。
 第一に、貸せという単純な圧力がある。世界銀行は1万人、IMFは2500人以上を雇っている。加えて他の国連機関にも5000人、少なくとも2万5000人が公認のNGO、民間慈善団体、政府の援助機関団体の従業者で、そのほかすべてを合計するとおよそ50万人(スイスの人口と同じ)が援助に関係している。彼らは融資をしたり補助金を出したりするが、みんな援助ビジネスに携わっていて(低利長期の融資は少しの金利をもたらし、補助金は実質的には自由に使えるお金だ)、1週間に7日、年に52週、それが何十年にもわたってだ。
 彼らの生活は援助に依存していて、その意味では受け取る側の役人も同じだ。ほとんどの開発機関において、貸付けが上首尾かどうかをはかるのは、大概ドナーの貸付額の大きさによってであって、援助のうちのどのくらいが実際に本来の目的に使われたかどうかによってではない。

 痛烈だなあ。援助が「貧困ビジネス」化しているようにも見えてしまう。ちなみに「二つの実務的な動機」のもう一つは「ドナーたちは、どの国が腐敗しておりどの国がそうでないかについて意見を一致させられない」こと。
 アフリカは生活水準が低く、低賃金なのに、なぜ工場などの直接投資がアフリカに向かわないのか。投資家が乗り越えなければならない、大きな障害が存在するからだという。つまり...

 多くの地域で道路、電話、電力供給などのインフラが不足し、質も悪く、(輸送コストを考慮すれば)その商品の生産コストを大きく引き上げている。したがって、アフリカはアジアやヨーロッパに地理的には近いものの、ほとんどすべての商品は、アジアで生産してヨーロッパに輸送したほうが、アフリカで生産して輸送するより安くなるのである。

 中国のアフリカにおける存在感。ピュー・リサーチ・センターの2007年6月の報告書によると...

 第一に、アフリカ全体では、中国および中国のアフリカでの投資に対して、少なくとも好意的な意見が批判的な意見を2対1で上回っていた。

 第二に、調査対象となったほとんどの国で、アメリカが与えた影響より、中国の影響のほうがポジティブに評価されている。アフリカの大多数の人々は、中国の影響の大きさは適切であると考えている。

 第三に、アフリカ全土で、中国の影響は、アメリカの影響と比較してより速いスピードで拡大していると見られていて、ほとんどすべての人が「中国は、アメリカよりもアフリカに大きな利益をもたらす」と考えている。

 第四に、アフリカのほとんどの国で、中国のプレゼンスは、アメリカに比肩するほどになっていて、その拡大スピードは、アメリカよりも急速である。

 侮れないなあ。そして、こんな話...

 インフラの建設と引き換えにエネルギー鉱区を差し出すことについては、アフリカの人々も中国人と同じように、よく理解している。それは、取引であり、誰が何をするのか、なぜそうするのか、誰のためにするのか、などについての甘い幻想はない。中国は、単にアフリカを政治的・経済的な目的に利用しているという見方がある。中国が高度成長を続けるには、石油が必要であり、アフリカにはそれがある。だが、アフリカにとって、中国の取引は、死活問題である。今や、アフリカは、必要とする投資のための資本、人々のための雇用、そして渇望していた経済成長を得ている。これらはまさに援助がこれまで約束したことだが、援助は常に失敗してきた。

 この節のタイトルは「中国はアフリカが必要とするものを持っており、アフリカは中国が必要とするものを持っている」。win-winというわけね。ただ、こうした投資国としては、中国に続いて、ロシア、日本、トルコ、中東諸国の名前が見える。日本も手をこまぬいて見ているわけじゃないんだな。
 ともあれ、アフリカから見ると、援助や成長がどう見えるのか、という話で、刺激的だった。警戒されながらも、浸透している中国のパワーも。