新渡戸稲造「民族優勢説の危険」を読んで

 「武士道」を書いた新渡戸稲造国際連盟事務次長を務めた国際派でもあった(そもそも「武士道」は英語で書かれている)。その新渡戸が1928年(昭和3年)、日本で勢いを強める民族主義国粋主義を懸念して書いたであろう論文。武士道を世界に知らしめた新渡戸は偏狭な民族主義者、日本至上主義ではなかった。例えば、こんな一節。

我々が新聞や演説に常に天孫民族ということを聞くは、あたかも排外的米人がアングロ・サクソン民族とかノールディックとかを振りまわすように、耳ざわりとなるほど多いのである。果たして大和民族という純粋な民族があったかすら未だ判然せぬ。かく呼び做す民族は政治上の目的のために作った一種の仮装談であるならば、その用い所を選ばねばただに効果が少いのみならず、かえって弊害あるを怖る。

 戦前に、こうしたことを言っていた人がいたのだ。ドイツについても

大戦争前にドイツの御用学者が揃いも揃って政治的人類学という雑誌を編纂して、仏人ゴビノーという曲学者より聞いたドイツ民族優勢説をかつぎ出し、世界に最も優秀なる民族はゲルマン人であると力説し、一歩を進めてゲルマン人の外にこれに匹敵する民族なしと断言し、更になお一歩を進めてたまたまゲルマン人にやや匹敵し得るものありとすれば、その血脈中には必ずゲルマン人の血が幾分か混じっていると主張した。

 ここでいう「大戦争」は第一次大戦。まだヒットラーが台頭する前の文章。ゲルマン人優勢説はすでにドイツ人の血の中にあったのだな。そして、その危険性を新渡戸は知っていたのだな。ドイツに限らず、日本にも同じ匂いを嗅いでいたのか。
 新渡戸は、日本をつくってきたのは、大和民族だけではなく、中国や朝鮮半島から帰化した人々の力でもあるとして、こう続ける。

誇りとすべきことは必ずしも人種の純粋なる点ではない。また国家の勃興し隆盛となるは人種や血の単一なるによるとも思われぬ。欧州の諸国を見渡しても、如何なる国でも人種的に統一された純粋な所は一もない。故に我々の系図の中に朝鮮人支那人の入っているのを寧ろ誇りとする時代が来るであろう。

 開かれた日本人、世界に生きる愛国者だったのだな(支那人というのは当時、中国人をそう言っていたので、文脈でわかるように差別的に使っているわけではない)。いまだったら、ヘイトスピートの対象になっていたのかなあ。新渡戸は5000円札のモデルになってもいたが、安倍政権だったら、採用されなかったかなあ。閉鎖性を増しつつある今の日本を考えると、いろいろと考えてしまう。
武士道 (岩波文庫 青118-1) Bushido, the Soul of Japan (English Edition) 現代語訳 武士道 (ちくま新書)