網野善彦、鶴見俊輔『歴史の話』を読んで

歴史の話 (朝日選書)

歴史の話 (朝日選書)

 「歴史を多元的にみる」「歴史を読みなおす」の2編からなる対談集。「百姓は農民」なのか、日本の起源など、歴史をどのようにみて、読んでいくのかを問い返す。網野善彦が他の著書で書いているテーマでもあるが、鶴見俊輔との対談を通じて、論点をコンパクトかつ平易に知ることができる。自分が知っている歴史が本当に正しいのか、視点を変えると、別の姿が見えてくるのではないか、複眼で見たほうが真の日本のかたちが見えてくるのではないか、などと歴史への興味が呼び覚まされる本。
 いくつか、興味深かったところを抜書きすると...
 網野氏の発言。

 百姓の中にには、商人、廻船人もいるし、山民、海民もいます。古代以来、日本列島の社会では現代流にいえば、「専業農家」であるのがむしろ以上で、兼業が当然だったというのが実情だと思うんです(略)いまの政治家もほとんどの人が、百姓は農家と思い込んでいるのではないでしょうか。そこから「くるい」がでてくるのだと思います。(略)
 考えてみると、古代から始まって、中世、近世、そして近代の初めまで土地に税金を賦課して、それを徴税体系の基本に置いてきたような国家は、全世界を見渡してもあまりないんじゃないでしょうか。ヨーロッパは違うと思いますし、中国は本家でしょうが、時代が下がると大分違ってきますしね。しかし、田地に税金を賦課して、土地税を基盤にしている国家にとって、それを負担する百姓は農民であってもらわなければ困るわけです。だから一貫して「農本主義」であろ。百姓を農民ととらえる志向を持ちつづけて来たのだと思います。

 面白い視点。そして、ここにつながっていく。

 租税の問題を考えましても、江戸時代に幕府や大名は百姓に重い税金、年貢を賦課したことになっています。中世でもそうだし、古代でも律令国家は思い租税を公民に賦課したことになっています。しかし、古代・中世にせよ近世にせよ、なぜ人びとは自分が苦労してつくったものを権力に渡してしまうのか。人民はそれほどおろかなじゃないと思いますね。しかしいままでの見方では、人民が力によって押さえつけられて、権力に従わざるを得ないから、またそれを見ぬくだけの力がないから、年貢・租税を払ってきたのだということになってしまいます。これは一種の愚民論であり、上から人民を見る見方になっているといわざるをえない。しかし、人民はそれなりに納得し、出すべき理由があるから租税を出していると考える必要があると思いますし、年貢・租税の負担が、はたして本当にどの程度重かったのかをも含めて、もう一度徹底的に考えなおしてみる必要があるだろうと思うんです。

 専業農家でなく兼業農家だとしたら、農業外収入もあるわけで、農業収入を基本とした土地税の負担はそれほど重いとも限らない。なるほど。そのほうが江戸時代の文化的な豊かさを説明できるかもしれない。
 鶴見俊輔氏は、こんな発言を...

 日本人は戦後、天皇よりもカネを信仰して、カネ信仰がバネになってきた。ところが、いまは韓国、台湾、シンガポール、香港が経済的に上がってきたから、カネを持っている彼らに対して、「おいお前」と言えなくなっている。そのことはやがて、経済的な取引を何度もしているうちに教科書の書き換えまで行くと思います。自分たちがやったことは全部良かったんだという教科書で訓練された商社マンが、韓国、香港、シンガポールに行って通用しやしないですよ。一緒に酒を飲むことはできない。結局はカネ信仰といういやなものがバネになって、教科書の書き換えまで行くと思うんです。

 この本の出版は2004年。その後の展開は当たっているなあ。で、次も鶴見氏...

 団結には恐ろしさがあるんです。「正義になる団結はいいじゃないか」というけど、そうじゃない。正義の団結がまた恐ろしいんです。正義の団結が十字軍もつくったし、大東亜戦争までいくんでんすからね。人間がバラバラであることの重大性を悟らなければ、思索力は上がらないし、創造的な学問はできないのです。「正しい思想はこれに決まった。右へならえ!」というのは学問じゃないですから。そが依然として恐ろしい。

 右にも左にも言えることだなあ。学問の話だが、「人間がバラバラであることの重大性」は、イノベーションの条件でもあるなあ。最近、日本のイノベーション力が衰えてきているように見えるのも「団結」にあるのかも。
 歴史観も団結によって歪んでいて、ふたりは、歴史をみれば、天皇制にはプラスもマイナスもありうる。しかし、戦前の皇国史観は「プラス、プラス、プラス」で歴史を読み、戦後のマルクス主義は「マイナス、マイナス、マイナス」でやっていたところがあるという。どちらも観念論で、学問にはなっていない。学問でいえば、明治以来の日本の学術語は、外国の学術用語を翻訳したもので、その過程で、言葉の持っている重層性が失われてしまうという指摘も面白かった。それも生活と切り離された薄っぺらな思想になってしまう一因となる。百姓という言葉に象徴されているように、その時代の言葉の意味、重層性を知っていくことは大切なのだなあ。
 さらに、公式文書からだけでは本当の歴史は見えてこない。襖の下張りに潜んでいた文書(領収書や送り状)などから経済の実態が見えてくることもあるという実例も上げられている。日本という国がどう成立してきたのか、もういちど、見直していくことも興味深い。歴史を読み、知る時、そして、歴史を通して現代を考えるときに参考になる刺激的な対談集でした。