アゴタ・クリストフ自伝『文盲』を読む

文盲: アゴタ・クリストフ自伝 (白水Uブックス)

文盲: アゴタ・クリストフ自伝 (白水Uブックス)

悪童日記 (ハヤカワepi文庫) 言葉はこうして生き残った 『言葉はこうして生き残った』で知った本。著者のアゴタ・クリストフハンガリーからスイスに亡命した女性で、フランス語で『悪童日記』を書いて注目された人。『悪童物語』は名前は知っていたものの、まだ読んでいない。『悪童日記』の作家というよりも、ハンガリー動乱で祖国を逃れ、亡命し、生まれ育った国のことばではない外国語で小説を書いたという著者個人の人生に興味をもち、読んだ。薄くて、すぐに読めてほしい本だが、切なく、悲しく胸に迫る本。
 欧州の国家は戦争に振り回されている。ハンガリーの場合、戦争中はナチスドイツに占領され、戦後、冷戦が終わるまでソ連支配下に入る。そのため、1935年生まれのクリストフは戦争中はドイツ語を覚え、戦後はロシア語を学ぶ。そして、スターリンの死後、ソ連に抵抗したハンガリー動乱のときに、祖国を逃れスイスに亡命してからはフランス語で暮らすことになる。クリストフは幼いときから本好きだったが、生きるためにフランス語を覚え、話すことはできても、フランス語の本を読むことはできなくなる。「文盲」である。それがタイトルになっている。
 学校で勉強した言葉でも、自ら選択した言葉でもない。ただ生きていくために必要に迫られて覚えた言語で表現者になる。その物語もさることながら、亡命者、難民としての物語が胸をうつ。クリストフは21歳のとき、4カ月の娘を抱えて亡命している。
 生きるためには食べていかなければならない。クリストフは工場に働きに出る。娘は託児所にあずかってもらう。そして

 夕方、わたしは子供といっしょに帰宅する。わたしがハンガリー語で話しかけると、幼い娘は眼を見開いて、まじまじとわたしを見る。あるとき、娘は泣き出してしまった。わたしが彼女の言うことを理解できないからだ。別の折りには、彼女のほうがわたしの言うことを理解できなくて、それで泣き出した。

 切ない話。そして、こんな話。

 スイスに来て5年経った。わたしはフランス語を話す。けれども、読むことはできない。文盲に戻ってしまった。4歳で本を読むことのできこのわたしが。

 悲しい話。著者は娘が小学校にあがるの機に、読み方を学ぶために大学の夏期講座に行く。えらいな。そして再び、本を読む。そして作家になる。
 祖国の自由のために戦い、圧政を逃れて、亡命する。しかし、祖国を離れ、亡命者、難民となってからの生活は簡単ではない。国境を越えるまではドラマではあっても、祖国を失い、知らない国で生きていくことは簡単ではないうえ、日常は単調でもある。

 かくして、砂漠の日々が始まる。社会的砂漠、文化的砂漠、革命と逃走の日々の高揚のあとに、沈黙が、空虚さが取って代わる。重要な何か、もしかしたら歴史を画することになるかもしれない何かに参加しているのだという、そんな印象を抱き得た日々のノスタルジーが、ホームシックが、家族や友人と会えない淋しさが、取って代わる。(略)
 物質的には、わたしたちは前より少し余裕のある生活をしている。かつては一部屋で暮らしていたが、今は二部屋だ。石炭も食料も不足していない。けれども、代償として喪ったものを思うと、この生活は割が合わない。

 胸を打つ。スイスの人々は亡命してきたハンガリーの人々にやさしい。クリストフにも、やさしく接してくれる。しかし...

 この人の感情を害することなしに、わたしの知っているわずかなフランス語の単語でもって、あなたの美しいお国はわたしたち亡命者にとっては砂漠でしかないのだと、いったいどうすれば説明できるのか。この砂漠を歩き切って、わたしたちは「統合」とか「同化」とか呼ばれるところまで到達しなければならないのだ。当時、わたしはまだ、幾人もの仲間が永久にそこまで到達できぬことになろうとは知らなかった。
 仲間のうちの二人が、禁固刑が待っているというのに、ハンガリーへ戻っていった。別の二人が、これは若い男で独身だったが、もっと遠くへ、米国へ、カナダへ行ってしまった。また別の四人は、それよりもさらに遠くへ、人が行けるかぎりの遠い場所へ、大いなる境界線の向こう側へ行ってしまった。わたしの知り合いだったその四人は、亡命生活の最初の二年間のうちに、自ら死を選んだのだ。一人はバルビツール酸系睡眠薬で、一人はガスで、他の二人はロープで首を吊って死んだ。最年少の女性は十八歳だった。彼女の名はジゼルだった。

 亡命は国境を越えるまではドラマでも、そのあとに待っているのは生活であり、日常。しかも、砂漠の中での孤独。最後に一人一人の自殺の方法と十八歳の女性の名前を記しているところに著者の心の傷の深さが見て取れる。シリアからの亡命者も同じような心境にあるのだろうか。ハンガリーに限らず、シリアをはじめとした国々からの亡命者、難民のことを想ってしまう。
 最後に目次を

ことの初め
話し言葉から書き言葉へ

道化芝居
母語と敵語
スターリンの死
記憶
国外亡命者たち
砂漠
人はどのようにして作家になるか?
文盲

 一気に読んでしまう本です。