中島岳志『親鸞と日本主義』を読む

親鸞と日本主義 (新潮選書)

親鸞と日本主義 (新潮選書)

 新潮社の「考える人」のメールマガジンに著者の中島岳志五木寛之の対談が載っていて、興味を惹かれ、読んでみた。北一輝石原莞爾井上日召と、昭和維新を目指した右翼・軍人に日蓮宗信者が多いという話は聞いていたが、親鸞浄土真宗と日本主義、国粋主義の思想的関係というのは知らなかった。それだけに新鮮で、刺激的な本だった。
 目次で内容を見ると

序 章 信仰と愛国の狭間で
第1章 「原理日本」という悪夢
第2章 煩悶とファシズムーー倉田百三の大乗的日本主義
第3章 転向・回心・教誨
第4章 大衆の救済ーー吉川英治の愛国文学
第5章 戦争と念仏ーー真宗大谷派の戦時教学
終 章 国体と他力ーーなぜ親鸞思想は日本主義と結びついたのか

 自力への否定が、改革・革命の否定、排除、絶滅へとつながり、他力本願が現下の体制の受容、礼賛にへと転化し、阿弥陀如来天皇に入れ替わる。摩訶不思議な現実に日本型ファシズムの原風景が見えてくる。人間的な親鸞のから多様性を排除する原理主義が登場する皮肉。その不可思議さに日本があるのかなあ。
 よく日本と外国は違う。キリスト教イスラムなどの一神教の諸外国に比べて、日本の宗教は寛容であり、差別の少ない社会という人がいるが、それならば、なぜ戦前・戦中のような非寛容で、唯我独尊の絶対的な日本主義が生まれたのか。それは本当なのか、と疑問に思っていたのだが、この本はひとつの視点を与えてくれる。他力本願がいつの間にか全体主義につながる道になっていく。その読み替えの背景には、個人の野心やら、世の中に対する怨念やらも見え隠れする。
 一方で、親鸞から生まれた天皇絶対主義、全体主義の萌芽が大正デモクラシー第一次世界大戦をきっかけにした日本の戦争成金バブルの時代にあり、そのイデオローグとなった人々の過剰なまでの自意識、プライドを見ていると、この本、単なる歴史、昔話とも思えない。なぜ、ネオ日本主義ともいうべき現代の非寛容で攻撃的なウヨクが跋扈するのかもわかるような気がする。戦後民主主義、80年代のバブル、SNSがさらに加速させるかのような自意識、プライド。それが日本型ファシズムの揺りかごになるのか、と思う。
 この本を読んでいて少々、引っ掛かったのは、倉田百三に象徴的なように、戦前には「性」がこれほどの哲学的、思想的な重みを持つのか、ということ。ちょっとフロイト的な分析に過ぎる感じもする。過剰な自意識の象徴が性なのかもしれないが、何だかセックスが思想やら行動やらを規定するという感じで、それもなあ、という気になる。面白いといえば、面白いけど、面白すぎて、それが本質なのかどうか、わわからなくなる。
 とはいえ、読んでいると、「親鸞」「神道」「天皇」をもっと勉強してみたくなる。安倍首相など現代ウヨクの総本山ともいえる日本会議の源流には「生長の家」があるというし、やはり日本を理解するには、宗教を知ることが大切なんだろうなあ。日本には、宗教は存在しないように見えるが、その実、日本の社会心理の深層には、宗教があるのかもしれない。
 昭和維新の先頭を走ったエリート集団は日蓮宗だったかもしれないが、独善的で排他的な戦前・戦中の空気をつくったのは、もっと庶民に根を下ろした浄土真宗なのかもしれないなあ。浄土真宗の光と影、両方を勉強してみたくなる。

浄土真宗はなぜ日本でいちばん多いのか (幻冬舎新書)

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