ウンベルト・エーコの「永遠のファシズム」を読んでいると、これって今の話じゃ...

 NHKEテレの「100分 de 名著」、今月はウンベルト・エーコの『薔薇の名前

www.nhk.or.jp で、なんか、ウンベルト・エーコが気になって、この本をめくってみた。

永遠のファシズム (岩波現代文庫)

永遠のファシズム (岩波現代文庫)

 

  5つの時事評論が収録されていて、この中から本のタイトルにもなっている「永遠のファシズム」を読んだ。イタリア発祥のファシズムについて

 ファシズムには、いかなる精髄もなく、単独の本質さえありません。ファシズムは<ファジー>な全体主義だったのです。ファシズムは一枚岩のイデオロギーではなく、むしろ多様な政治・哲学のコラージュであり、矛盾の集合体でした

  なるほど。このあたり戦前の日本のファシズムと共通しているかもしれない。日本の大政翼賛体制も呉越同舟で、核はなかったという話を読んだことがある。伝統的な右翼はむしろ苛立っていたとか。

 で、エーコは、種々雑多、ファジーであったとしても、「ファシズムの典型的特徴を列挙することは可能だと、わたしは考えています。そして、そうした特徴をそなえたものを、「原ファシズム」もしくは「永遠のファシズム」と呼ぼうと思います」といって、その特徴をあげていく。

 いくつか気になったところを拾っていくと...

ファシズムの第一の特徴は、<伝統崇拝>です。

伝統主義は<モダニズムの拒絶>を意味のうちにふくんでいます。(略)啓蒙主義や理性の時代は、近代の堕落のはじまりとみなされるのです。この意味において、原ファシズムは「非合理主義」であると規定することができます。

非合理主義は<行動のための行動>を崇拝するか否かによっても決まります。(略)知的世界に対する猜疑心は、いつも原ファシズム特有の兆候です。ファシスト幹部知識人たちは、伝統的諸価値を廃棄した自由主義インテリゲンツィアと近代文化を告発することに、ことさら精力を傾けてきました。

近代の文化において、科学的共同体は、知識の発展の手段として、対立する意見に耳を貸すものです。原ファシズムにとって、意見の対立は裏切り行為です。

意見の対立はさらに、異質性のしるしでもあります。原ファシズムは、ひとが生まれつきもつ<差異の恐怖>を巧みに利用し増幅することによって、合意をもとめ拡充するものです。ファシズム運動もしくはその前段階的運動が最初に掲げるスローガンは、「余所者排斥」です。ですから原ファシズムは、明確に人種差別主義なのです。

ファシズムは、個人もしくは社会の欲求不満から発生します。このことから、歴史的ファシズムの典型的特徴のひとつが、なんらかの経済危機や政治的屈辱に不快を覚え、下層社会集団の圧力に脅かされた結果、<欲求不満に陥った中間階級へのよびかけ>であったことの理由が説明できます。

いかなる社会的アイデンティティももたない人びとに対し、原ファシズムは、諸君にとって唯一の特徴は、全員にとって最大の共通項、つまりわれわれが同じ国に生まれたという事実だ、と語りかけます。これが「ナショナリズム」の起源です。

さまざまなファシズムがきまって戦争に敗北する運命にあるのは、敵の力を客観的に把握する能力が体質的に欠如しているからなのです。

 原ファシズムは「質的ポピュリズム」に根ざしたものです。(略)原ファシズムにとって、個人は個人として権利をもちません。量として認識される「民衆」こそが、結束した集合体として「共通の意思」をあらわすのです。人間存在をどのようにして量としてとらえたところで、それが共通意思ををもつことなどありえませんから、指導者はかれらの通訳をよそおうだけです。

いまでは質的ポピュリズムの格好の例を、わざわざヴェネツィア広場やニュルンベルク競技場にもとめる必要はありません。わたしたちの未来には、<テレビやインターネットによる質的ポピュリズム>への道が開けているのですから。選ばれた市民集団の感情的反応が「民衆の声」として表明され受け入れられるという事態が起こりうるのです。

 うーん。考えさせられます。最後のところなど既に現実化している感じがする。

 抜書きしたところ以外にも、いろいろと刺激的なところがあるのだが、この特徴を読んでいると、A首相とか、T大統領とか、その政治のなかに同じような体質が...。いま目の前で繰り広げられている光景は昔からあったものかもしれない。問題は、どこに行き着くのか。原ファシズムと重なり合うところが多けば多いほど、必敗の運命が待ち受けるのか。「意見の対立は裏切り行為」とみているような今の政権だが、敵の力の把握はどうなんだろうか。

 『薔薇の名前』、映画は見たけど、本も読んでみるかな。

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