伊丹万作「戦争責任者の問題」ーー「だまされた」で済ます「悪の陳腐さ」

 伊丹万作って伊丹十三の父親で、映画監督だったなあ、と思いつつ、たまたま目について読んでみたら、なかなか深いエッセイだった。

戦争責任者の問題
 

  敗戦後、戦争責任を追及する声が各界であがり、映画界も例外ではなかった。映画関係の戦争責任者の追及、追放が主張されていた時代のエッセイ。伊丹は戦争責任の問題はわからないという。「多くの人が、今度の戦争でだまされてい たという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから、もうぼつぼつわからなくなつてくる」と伊丹。

 みんなだまされたというけど、じゃあ、だまされたと言っている人は他の人をだましてはいなかったか。本当はみんなで夢中になって、だましたりだまされたりしていたのではないか。

このことは、戦争中の末端行政の現われ方や、新聞報道の愚劣さや、ラジオのばかばかしさや、さては、町会、隣組、警防団、婦人会といつたよう な民間の組織がいかに熱心にかつ自発的にだます側に協力していたかを思い出してみれば 直ぐにわかることである。

 戦争中、街で人の服装をチェックして「非国民」と言っていたのは、あなたたちでしょうと。市民の生活を圧迫していたのは市民。戦争責任といういけど、戦時体制の締め付けに狂奔していたのが、あらゆる身近な人たちであったことは何を意味するのか、と、伊丹は問う。

 そして、だまされた側の責任について語る。

だまされたということは、不正者による被害を意味するが、しかしだまされたものは正しいとは、古来いかなる辞書にも決して書いてはないのである。だまされたとさえいえば、一切の責任から解放され、無条件で正義派になれるように勘ちがいしている人は、もう一度よく顔を洗い直さなければならぬ。

 「だまされた」で、すべて免罪されるのか。伊丹は追い打ちをかける。

だまされたもの必ずしも正しくないことを指摘するだけにとどまらず、私はさらに進んで、「だまさ れるということ自体がすでに一つの悪である」ことを主張したいのである。だまされるということはもちろん知識の不足からもくるが、半分は信念すなわち意志の薄弱からくるのである。我々は昔から「不明を謝す」という一つの表現を持つている。これは明らかに知能の不足を罪と認める思想にほかならほかならぬ。つまり、だまされるということもまた一つの罪であり、昔から決していばつていいこととは、さ れていないのである。

  伊丹万作、怒っています。

いくらだますものがいても、だれ一人だまされるものがなかつたとしたら今度のような戦争は 成り立たなかつたにちがいないのである。

  つまりだますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。

  そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど 批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

 痛烈です。伊丹は、日本国民は奴隷根性といわれても仕方がないという。だいたい、「外国の力なしには封建制度鎖国制度も独力で打破することができなかった」し。「個人の基本的人権さえも自力でつかみ得なかった」じゃないかと。黒船が明治維新を、敗戦が日本国憲法をもたらした。

我々は、はからずも、いま政治的には一応解放さ れた。しかしいままで、奴隷状態を存続せしめた責任を軍や警察や官僚にのみ負担させて、彼らの跳梁を許した自分たちの罪を真剣に反省しなかつたならば、日本の国民というものは永久に救われるときはないであろう。(略)

「だまさ れていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。

 「だまされていた」といって平気な国民は何度でもだまされる。現代への警告にも聞こえる。相変わらずだまされていませんか、と。考えてみると、「だまされた」と言って済まして考えない人は、すべては他人事であって、自分の問題として考えない。内省も、反省もない。すべては他人の責任。結果、そうした人間の集団は何度でも同じ過ちを繰り返す。

 伊丹十三のお父さんって、どんな文章を書いていたのだろうか、と思って、何となく読み始めたのだが、思いの外、いまの日本にも通じる、考えさせられるエッセイだった。いまから10年、20年たって、あのときはだまされていたとか言ったりはしないのか。伊丹の言う「だまされる」という悪は、いまも日本にただよい続ける「悪の陳腐さ」かもしれない。そんな感想が残った。