ハンナ・アーレント「真実と政治」を読むーー嘘の政治は栄えても最後は現実が復讐する

 昔々、古本屋さんで買った本をなぜか思い出して、ページをめくっていると、ある人の文章が目に止まった。

非政治的人間の政治責任 (1972年)

非政治的人間の政治責任 (1972年)

 

 本の名は『非政治的人間の政治責任』 ーー1964年、ドイツの知識人10人の連続講演から生まれた時事評論集。この本に収録されていたハンナ・アーレントの「真実と政治」が気になり、を読んでみた。

 政治における「嘘」の問題を語っている。アメリカに象徴されるように世界中で政治的な党派性を持つフェイクニュースが猛威を振るい、日本を見ても、政治家が嘘に無頓着になった様子を見ていると、半世紀も前のアーレントの言葉がいまも(いまだからなおさら?)心に響く。このような政治状況になってしまった現代と、この先の未来について考えさせられる。
 いくつか、印象に残ったところを抜き書きすると…

 嘘が公衆を呪縛にかけることに本当に成功した場合には、それは行動の真の能力を代償として起こったことなのです。つまり、世界を変え、より良くするために事実に即して方向を見定める代りに、この場合には、世界をその事実性において抹殺しようとするのです。

  ちょっとややこしい訳だが、要するに現実を改善するのではなく、嘘の事実で現実の世界を否定する社会。粉飾された現実から行動は生まれないし、事態がよくなることもない。統計を偽装したら、何が現実かわからなくなってくるし、より良い政策が出てくるはずもない。そんな話。理論が現実になってしまっている感じがする。

 歴史認識についても...

 ある不正が行なわれ、そのことを認めようとしないことから、一時代の全歴史が偽造される。このような伝説の形成は、ちょうど、私的な領域においては経歴詐称が演じる役割を、公的=政治的領域において演じることになります。どちらの場合も、嘘をついた者は自分自身の嘘の犠牲になって倒れるものです。

  歴史を改ざんすると、国も結局はホラッチョみたい結末になってしまうというわけか。

 こんな記述も...

(現代の嘘は)国家利益集団や社会的利益集団の巨大化した宣伝装置によって世間にまき散らされうるものであります。これらの利益集団は、それ自体としては完全に首尾一貫しており、それゆえきわめて信用されやすい「現実の代替物」つまり、「イメージ」もしくは「宣伝像」を、真に存在している現実を覆い隠すものとして前面に押し出すだけの力を実際にもっております。

  いまも昔もかわらない。SNSなど道具が新しくなっているだけ。そして宣伝の力はますます強くなっているかもしれない。そして...

事実を隠蔽し嘘をつくというかぎりで宣伝がもっている危険性は、自由な意見形成の破滅ということばかりでなく、真の政治的紛争ーーそれは事実のなかにこそその基礎をもつものなのですがーーを歪めてしまうことにもあります 

  共通の事実の基盤がなく、真の政策論争ができない社会。うーん...。いまの世界をみているような...。日本でも現実化してきているような...。

利益によって導かれた研究機関が公共生活に現実の影響力をもつことにでもなれば、意見と意見とが対峙する真の論争の代りに、「正しい事実」をしっているのは誰か、という点をめぐっての八百長的紛争が登場することになります。

 「利益によって導かれた」組織には、党派性をもった研究機関だけでなく、メディアも入るのだろうなあ。特にテレビとか。広告代理店も同じグループか。しかし、その行く末は...

最後になって、真実を覆っていた衝立が崩れ落ち、現実は善と悪、破滅と堕落の家庭の混合から成り立っているのではなくて、ただただ不幸だけがなお現実のものとなっているのかのような様相を呈するところまで続くのです。それは、私たちが現実を否認したことにたいする現実の復讐なのです。

 嘘で現実から目をそらしても、最後は現実に復讐されるのだ。なんだか予言の書のような...。

 こんな一節も

個々人がそれぞれ独立して発見したり、語ったりする真実の力は、一時的には、組織された宣伝がもつ権力につねに屈服します。しかし権力そのものは、事実よりもうつろいやすいものです。(略)権力は、その組織が麻痺症状を示し、そこに結集していた人々がふたたび散っていくときにはただちに消滅するものです。そしてこのような事態が訪れると、真実は常にそこに現れて、その真実性を主張するものです。あたかも、真実を証言し、それを貫徹させる声がこの世界に登場する瞬間をひたすら待ちかねていたかのように。

 おごれる者、久しからず、か。権力もまた真実に打倒されるのだなあ。嘘を基盤にしても持続性がない。ナチスの時代を生き抜いてきた人らしい言葉だなあ。

 ともあれ、もろもろ印象に残る言葉の多い本でした。党派に左右されず、真実を探求する大学の役割の重要性に対する論及もあった。横暴な権力を振るった権力者でさえ、大学の自治を侵害しなかったのは、非党派的に真実を探求することの重要性(現実社会にもたらすメリット)を政治的に認識していたからだという。

 そういえば、メキシコ映画界のドキュメンタリーで、政府が上映を禁じた映画も大学の保管庫にしまいこめば、廃棄されることなく保存されたというエピソードがあった。これも西欧的な政治的、知的伝統のうえでの話なのだろうなあ、と改めて思った。この点、日本はそうした伝統が根付いているわけでもなさそうだし、大学は真実を探求するインフラとして守られているんだろうか。財政的に大変そうだし...。

 などなど、いろいろと考えさせられる一片でした。