高山文彦「エレクトラーー中上健次の生涯」

エレクトラ―中上健次の生涯

エレクトラ―中上健次の生涯

紀州 木の国・根の国物語―中上健次選集〈3〉 (小学館文庫) 新聞各紙の書評で絶賛されていたが、大晦日に読み始めて、一気に読んでしまった。中上健次の凄絶な生涯の記録。昔、熊野に旅行に行くときに、中上の「紀州」を読み、心を動かされ、新宮に一泊した。実際、紀州を旅行して、伊勢よりも、那智よりも、新宮が一番、心に残ったのだが、そのときに、この本を読んでいれば、さらに違った風景を見ることができたのかもしれない。

 この本を読むと、中上健次の背後に、すさまじい血と地の重さがあったことを知る。永山則夫とは一歩の差。銃を持つか、ペンを持つか、ふたりを分けたものは偶然。人との出会いだったのかもしれない。中上には永山とは違って教育を受ける余裕があったともいえるが、デブで平凡な生徒に「文学の才能」を見いだしてくれた、ひとりの教師の差は大きい。高校までの中上は、その後の中上のイメージと、かなりの差がある。

 もうひとつ、編集者との出会いがある。編集者の役割の大きさを改めて知った。作家と編集者の葛藤の中から文学が生まれてくるのだということを痛感する。ブログの時代になって表現は容易になった。しかし、編集者がいなければ、「殺せ」「壊せ」と絶叫するだけで終わったかもしれない。情念が文学に昇華しなかっただろう。この評伝の冒頭が、「文藝」編集者の鈴木孝一とのやりとりから始まるのは象徴的だ。鈴木という愚直な編集者がいなければ、作家、中上が生まれていたかどうかはわからない。そして中上が作家とした大成したときには、鈴木は雑誌の表舞台からは姿を消している。ひとつの作品が誕生するまでには、人との出会い、そして成熟の時間も含めて様々な要素の融合があるのだなあ。その一方で「出版」という世界を知り尽くした編集者の助言が危うく作品の輝きを削いでしまいかねないことも描かれている。最近のように商業主義が優先される世界では、なおさら、つぶされる危険性もある。

 もろもろ考えると、中上をめぐる物語は、文学の奇跡だったのかもしれない。中上の最期に至るまで、胸を打つ本だった。