東日本大震災で「震災復興庁」創設構想。関東大震災の「帝都復興院」がモデルらしいが、当時も政争が...

枝野幸男官房長官は22日の記者会見で、東日本大震災の被災地支援と復旧・復興策を統括する新官庁「震災復興庁」の創設構想について「名称は別として一つのまとまった機能を果たしていくシステム、組織は当然、考えなければいけない」と述べ、前向きに検討していく考えを表明した。(略)大震災被害は広域のため復旧・復興に必要な予算額も算出しきれていないのが実情だ。数年間に及ぶ措置が必要とみられ、各省庁の予算争奪戦も予想される。統括組織の構想への理解は公明党など野党側にも出ている。関東大震災では1923年に「帝都復興院」が設置され、復興計画などを策定したことがある。

 東日本大震災で、関東大震災で設置された「帝都復興院」と同じような組織を創設しようという構想があるらしい。で、この「帝都復興院」の話、『震災日誌』の解説で成田龍一氏が書いている。関東大震災で復興計画を担当したのは、当時の内務大臣、後藤新平だった。「大風呂敷」ともいわれた後藤新平は40億円という当時の日本の財政事情を超えた(無視した?)夢のような復興計画を描く。で、どうなったかというと...

 後藤による復興計画は、政府内で大きな抵抗にであう。彼は復興実行機関として帝都復興省をのぞんでいたが、帝都復興院として規模・権限が縮小され、計画主体も帝都復興審議会、帝都復興参与会、帝都復興評議会と三者にわかれてしまう。また当初の土地公有構想が土地区画整理事業に後退させられ、復興予算も大蔵省により13億円に削られた。

 予算規模の方は13億円でも当時の日本の国家規模からすると過大で、「国辱国債」といわれるぐらい厳しい条件で外債でも調達せざるを得なかったらしいから、計画縮小は仕方なかったのかもしれない。ただ、それはさておき、国難の時でも政争や省庁間の権限争い、既得権を持った人たちの抵抗は強かったのだな。当時のいいところは学び、悪いところは反面教師として歴史を学ぶべきだな。
 関東大震災の時は、まず復興計画をつくる責任者が決められ、そこから組織の問題が出てきたわけだが、いまの復興計画立案の責任者は誰なのだろう。総務大臣? 経済財政担当大臣? 国家戦略担当大臣? 大臣の席を増やすことよりも、まずは今いる大臣から指名すればいいんじゃないのだろうか。
【やぶしらず通信・関連ログ】
関東大震災の復興予算。当時も議会は政争の場で、予算成立まで半年を浪費した => http://t.co/m956fDP

震災日誌 (1981年)

震災日誌 (1981年)