ブラッド・ギルバート/スティーブ・ジェイミソン『ウィニング・アグリー 読めばテニスが強くなる』

ウイニング・アグリー 読めばテニスが強くなる

ウイニング・アグリー 読めばテニスが強くなる

 錦織圭のコーチとして注目を浴びるブラッド・ギルバートの自伝的テニス論。マッケンローやレンドルのような傑出した技を持っていない選手がプロの世界で、どのようにランキング4位まで上がったのか。その秘密を自ら解説した本。カッコ良くない勝ち方というのは、要するに孫子の兵法。敵を知り、己を知らば、百戦危うからずの世界といえる。敵の強さと弱さを知り、自分の強みと弱みを理解する。最後に必勝ルールを2つにまとめて「計画性を持て」「絶対に慌てないこと」としている。
 しかし、これを読んでいると、テニスはかなりメンタルなスポーツ、心理戦であることがわかる。いかに相手のペースを崩し、実力を発揮させないか。ジョン・マッケンロージミー・コナーズは勝つためには素晴らしいプレイを見せると同時に、自分にとって有利な状況をつくるためには汚い手を使うことも辞さなかった。また、プロスポーツとしての商業的価値ゆえに、彼らには傍若無人な行為が許されていたと書いている。主審を脅して判定を変えさせるようなこともあったというが、このあたり、今の「チャレンジ」ルールがあると、使えないないだろうなあ。
 マッケンローについては、いろいろな思いがあるようで、素晴らしい天賦の才能があったのに、審判を恫喝したり汚い手が許されることを知ったことで、才能を完全に開花させることができなかったと評している。読んでいて、バルセロナのシャビのジダン評を思い出してしまった。シャビはレアル・マドリードジダンについて、あれほどサッカーの才能に恵まれているのに、どうして汚い手を使ったりするのだろうと慨嘆していた。
 で、面白かったところをいくつか、抜書きすると

 ゲーム開始直後の2ゲーム。これはウォーミングアップから試合に熱が入るまでの“移行期間”だ。多くのプレーヤーに軽視されがちな2ゲームだが、わたしはリードを奪い、スタートダッシュをかけるための有効なゲームだと考えている。相手はたいてい半分眠っているか、あるいは状況をよく把握せずにいるかのどちからでしかない。

 なるほどね。序盤は注目のわけね。
 次に流れを変える方法...

 相手にリードをされて試合の流れを変えたいとき、わたしはバッグの中から乾いたシャツを出して着替えることにしている。あるいは、ソックスを履き替えたり、リストバンドを替えたり、スナックバーをかじることもある。ブレークバックしようというときは必ずシューズのヒモを締め直すことにしている。何でもいいからリフレッシュした気分になるためのきっかけを作るのだ。

 なるほどなあ。テレビのテニス中継を見るときに、他の選手も同じことをやっているのか、見てみよ。錦織選手とか。でも、このラッキーグッズで気分転換というのは、試験の時に鉛筆やペンを変えるとか、いろいろと応用できるのかも。
 怒りについて

 怒りというのは発火性の危険物と同じである。ガソリンのように、有効に使えば車を走らせることができるが、使い方をまちがえると爆発することもある。

 うまい表現だなあ。で、往々にして凡人は爆発して大やけどして終わるのだけど…。
 マッケンローについて…

 ジョン・マッケンローはテニスの歴史の中でも最も偉大なプレーヤーといえる地位を確立した。彼はすばらしいキャリアを残したが、持っている可能性を完全に生かさずに終わったと思う。だが、それは彼だけに責任があるとは思わない。テニス界全体がもっと彼にはっきりした態度をとっていたら、マッケンローのためにもテニスのためにもプラスになったはずだ。マッケンローはツアーに出始めたころ、大げさなふるまいが自分のためにプラスになることを知った。コートで激怒して暴れまくっても、何事もなかったかのようにそこから歩き去ることができた。ちょうどUCLAで、わたしにやったようにだ。しかし、彼が気づかなかったのは、自分のふるまいは短期的に勝利をもたらしても、長期的に見れば自分のゲームや人生にダメージを与えかねないということだった。

 これは粗野、粗暴を「暴れん坊」「異端児」とかメディアに持ち上げられて、消費されていく若手スポーツ選手への教訓なのかもしれないなあ。その後、マッケンローやコナーズみたいなタイプが出てこないのは、過剰な商業主義はスポーツの商業性を損ねるということに気づいて、テニス界が反省したということなのかもしれない。
 ともあれ、この本、自分の実体験をベースに、さまざまな選手との駆け引きの話が面白いと同時に、一般的な週末テニスプレーヤーへの教科書にもなっている。よくできた本。