ローラン・ビネ『HHhH−−プラハ、1942年』

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

HHhH (プラハ、1942年) (海外文学セレクション)

 ナチス・ドイツゲシュタポヒムラーに次ぐナンバー2であり、ユダヤ人絶滅計画の策定者でもある冷血の殺戮者、ラインハルト・ハイドリヒが1942年にチェコ亡命政権のパラシュート隊員によって暗殺された事件を描いた小説であると同時に、その小説を書く「僕」の小説。
 ハイドリヒ暗殺については映画「暁の七人」を通じて知り、この映画のイメージが強かったのだが、ハイドリヒという人物、ジェノサイド・マシンと化したナチスという組織、そして、暗殺計画を立てたチェコスロバキア亡命政権の事情、そしてチェコ、スロヴァキア双方の民族事情(ドイツはチェコとスロヴァキアを区別して管理、分断し、亡命政権側は暗殺計画を実行する2人の隊員をチェコ人とスロヴァキア人から選んで、戦後の分裂を回避しようとしている=冷戦終結後、結局、分裂してしまうが)など、詳細に描かれていく。ハイドリヒその人の来歴も詳しい。映画と史実の違いを知ることができる(ちなみに史実から見たとき、筆者の「暁の七人」=原作=の評価は高くない)。映画や歴史書のなかでは脇役として消えてしまいがちな人々への配慮も欠かさない。歴史は英雄たちだけで動いているものではない。
 この本、暗殺をめぐる物語だけでも十分、面白いのだが、それ以上に刺激的なのは、それを小説に書こうとする「僕」の存在。歴史を語るとは何なのか、真実を伝えるのには、どうしたらいいのか、現実を伝えようとするとき、小説家はどこまで脚色を許されるのか−−そうした自問自答がある。かつて、この暗殺計画を描いた本や映画に対する論評もある。そこには、情報や言葉が溢れかえる現代に、歴史を語る、誠実に真実を語るということの難しさ、厳しさが同時に表現される。その二重構造が面白いし、作品に深みを加えている。
 この本、映画化の話もあるというが、どのように映画にするのだろう。暗殺計画の事実関係だけを描くこともできるが、それでは単なる戦争映画になってしまうだろう(それでも十分に面白いだろうが)。原作に忠実に描こうとすれば、ハイドリヒ暗殺計画を映画にしようとしている人の映画という形にするのだろうか。歴史と、伝えることの難しさ。小説の問題を映像化の問題として昇華していくぐらいの映画にしてほしいなあ。
 ともあれ久々に刺激的な小説でした。