司馬遼太郎 『街道をゆく 肥前の諸街道』

街道をゆく 11 肥前の諸街道 (朝日文庫)

街道をゆく 11 肥前の諸街道 (朝日文庫)

 長崎界隈の歴史紀行を読んでみたくなって、思いついたのが、司馬遼太郎のこの本。唐津から平戸を抜け、横瀬・長崎に至る。期待通り面白かった。蒙古襲来から、ポルトガル、スペイン、オランダ、英国などとの交易、キリシタンなど、肥前は古くから海外との接点だったのだなあ。戦国時代の日本人の海外との付き合い方も興味深い。ポルトガル、スペインといったカトリック国は交易の条件としてキリスト教への改宗を求めてきた。キリシタン大名にしても、もともとは交易の利益を求めていたのだな。そしてポルトガル、スペインの宣教師団は廃仏毀釈を徹底したことがかえって憎しみを買うことにもなったという。キリシタン弾圧の激しさは、その反映だった面もあるとか。なるほどなあ。一方で、信仰は個人の問題というプロテスタントのオランダは重商主義で、相性が良かったのか。で、オランダ貿易だけが鎖国の時代に残ったわけね。
 しかし、英国が徳川家康の時代に、日本に商館を持っていたとは知らなかった。交流初期の段階で撤退してしまうだのだが、帝国主義全開だった当時の英国も、このころはインド、中国で、お腹がいっぱいだったのか。日本との貿易に、それほどのメリットを感じなかったのか。植民地化への野心をかきたてる存在ではなかったのだな。それは日本としては幸福だったのかもしれない。しかし、歴史にはまだまだ知らないことはいっぱいあるなあ。
 で、印象に残ったところからの抜き書きすると...
 カッテンディーケの『長崎海軍伝習所の日々』(水田信利役)からの引用だから、また引きになるけど、こんな一節...

.....どうも日本人には、その(防衛についての)義務の観念が薄いようである。その一例を挙げてみれば、私は或る時、長崎の一商人に、一体この町の住民は、長崎が脅かされた時に、果たして街を防衛できるのかどうかと尋ねてみたが、その商人の曰く「何のそんなことは我々の知ったことではない。それは幕府のやる事なんだ」という返事だった。

 海の外から攻められたのは蒙古襲来ぐらいだし、さらに天下泰平の徳川300年が加速させた市民感情なのかもしれないが、この「防衛」「安全」に関する市民感覚というのは今も変わらないのかも。それが右翼の人たちをいらだたせるんだろけど、日本人のDNAに深く組み込まれてしまっているんだなあ。
 宣教師たちがカトリックの布教とともに、神社仏閣を徹底的に破壊するのが常だった。それがキリシタンに対する反発を強めていたことを紹介して...

 当時も、仏教徒あるいは守旧的気分の人物が−−当然のことだが−−いた。かれらに恐慌をまきおこすような戦略を、当時の宣教師たちがなぜとったのか、かれらのために惜しいような気がする。西洋の近代以前の人間というのは、良心と知性の水位が高ければ高いほど、正義を絶対化したがる傾向がつよかった。このことは、当時のカトリックの海外布教の性格や、あるいは宣教師たちの個性に帰せられるべきでものではなく、要するに人間の精神史の段階として、この当時、そいうぐあいだったのであろう。

 なるほど。この宣教師たちの時代に限らず、長い歴史の中で何度となく、正義の絶対化が時代を支配する空気として充満することがあるように思える。そして皮肉なことに、ただただ正義に取り憑かれた時代は息苦しく、ときに暴走して血塗られた時代になっていくような気がする。
長崎海軍伝習所の日々 (東洋文庫 (26))