佐藤栄佐久『知事抹殺−−つくられた福島県汚職事件』

知事抹殺 つくられた福島県汚職事件

知事抹殺 つくられた福島県汚職事件

 2006年に収賄罪で逮捕された元福島県知事の手記。2009年の出版で、そのときは地裁で有罪判決が出た後だったが、2012年に最高裁で執行猶予付きの有罪が確定している。本人は無罪を主張し、検察の国策捜査ではないかという批判も一部にあったが、あの日までは半信半疑だった。だから、この本も読んでいなかった。しかし、2011年3月11日以降、この本の主張、つまり原発に対して極めて厳しい態度をとった知事だったことで国策捜査の標的になったのではないか、という主張は説得力を持ち始める。
 そして、今になって、この本を読むと、原発の安全性を執拗に求める姿勢(知事としては当然の行動なわけだが)、そして地方主権へ向けて「闘う知事」であったことが、いかに国にとっては目障りだったかがわかる。本人は、この原発地方主権の姿勢が国策捜査を招いたと信じているようだが、特に前者が問題だったのだろうなあ。国や東電にしてみれば、安全性に対する「疑問」を「因縁」とでも思ったのだろうか。原子力保安院原子力委員会も「安全性」という意味からいうと、全く当てにならない存在であることは、311に突然起きたことではなく、以前からの根本的体質だったことがわかる。
原発ホワイトアウト 最近、小泉元首相が、核廃棄物の問題を指摘しているが、この本を読んでも、これは大きな問題で、核燃料サイクル計画が既に破綻しているのにもかかわらず、それがあることにしないと、核廃棄物処理の理屈が成り立たず、原発が稼働できなくなってしまという現状がある。福島第一原発の事故が起きた時、使用済み核燃料がプールに置かれているのはなぜだろうかと思ったのだが、単純に「ゴミ」の持って行きどころがない、ということでもあったのだ。怖い話...。
 国や電力会社が反原発派の知事をつぶすために、汚職事件をつくるという話は、話題の近未来小説『原発ホワイトアウト』にも出て来るが、そのモデルが、この福島県知事事件だったのだなあ。ともあれ、原発問題について考えさせられる本。
 さて、目次で内容を見ると...

序 章 立候補
第1章 知事誕生
第2章 地方に生きる
第3章 原発をめぐる闘い
第4章 原発全基停止
第5章 「三位一体改革」と地方分権
第6章 逮捕
第7章 自白と自殺
第8章 裁判

 後半は「汚職事件」の顛末。原発地方自治をめぐる国との闘いで、慎重の上にも慎重を期してきた佐藤氏が「事件」がスキャンダルとして報道された初期の段階で、調査したり、対応策を練ったり、もっと慎重に動かなかったのかという疑問も残るが、まあ、いかに国でも、事件をつくりあげてまで、自分をつぶしには来ないと思ったということだろうか。
 もうひとつ本筋とは関係なく印象に残ったのは、原発立地自治体の財政状況は必ずしも良くなっていないというくだり。これを読んで思い出したのは、国の補助金などで大型施設をつくると、その維持費がのちのち大きな負担となって残るという話を建設会社の知り合いがしていたこと。原発とは関係ないけど、何かの振興資金で、ある僻地の町に斬新なデザインの大型体育館があったのだが、それを見て、その人、「補助金がたくさんついたんだろうけど、ああいうのをつくると、清掃やら塗装やら電気代やら何やら、毎年のメンテナンスにかかる費用が大変なんだよね」と言っていた。うーん。カネをもらって、立派な施設ができるけど、その維持費がまた負担となり、さらに依存していかざるを得なくなる。なんだか、悪徳芸能プロの悪い人がシャブ中にして誰かを支配するみたいな...。原発立地自治体の財政悪化の原因が何かまでは書いてなかったが、そんな構図が頭に浮かんでしまった。そんなことになっていないとは思いますが...。
 ともあれ、「原発をめぐる闘い」と「原発全基停止」の章が読み応えがあった。日本はスリーマイルやチェルノブイリとは違う(日本人は米国人やロシア人なんぞとは出来が違う)というのは傲慢で、事故に備えた危機管理体制が不完全であったことがわかる。「安全」よりも「安定稼働」なのだなあ。そして、電力消費地の東京は、原発立地県の福島に全く無関心なことも改めて痛感する。大体、福島県東北電力のエリア。東京電力発電所を置く理由は311の以降、雲散霧消してしまった感じもする。東京五輪のために原発が必要ならば、東京に作れという話なんだなあ。本当に安全だと思うならば、何で東京に作らないんだと...。
 原発だけでなく、東京と地方、中央集権と地方分権、官僚と人民、いろいろなことを考えさせられる本です。