津野海太郎『百歳までの読書術』を読む

百歳までの読書術

百歳までの読書術

 紀田順一郎の『蔵書一代』は「蔵書家無残」というか、「蔵書家無情」とでもいったような蔵書家受難の本だったが、津野海太郎のこの本も「そんなに本を溜め込んじゃって、どうするの。もう、いい歳なんだから」といってもいいような本。「百歳までの読書術」というより「60代からの読書術」と言ったほうが良さそうな本。本を持っていることは大変なのだなあ。中に「本を増やさない法」という項目があり、そこでは、攻撃的なやり方と防御的なやり方が紹介されている。
 攻撃的な方法とは...

売る、捨てる、友人知人に押しつけるなど、さまざまな手をつくして所蔵する本のかずを減らし、なにがなんでも本棚に隙間をつくりだそうとする。

 で、防御的方法は...

手持ちの本をいま以上に増やさないこと。具体的にいえば、新刊と古本を問わず、私はもう、本はできるだけ買わないようにするぞと腹をくくる。

 うーん。さびしい。で、この防御的方法を助けるのが図書館。買うにしても、図書館で借りて読んでみて一度、チェックするという。それはあるかも。最近の図書館はネットワーク化が進んでいるので、本が図書館に所蔵されているか、いま貸出されているのか、図書館にあるのかが、すぐにわかる。本は自分で買え、というのが長年、理想とされてきたが、蔵書の処分まで、動脈だけでなく静脈的な部分まで考えると、図書館って大切だなあ。
 自分自身を考えても一時期から、一度、読んだ本で、地元の図書館に所蔵されている本は古本屋さんに売ってしまったことがある。いまは図書館にあるかどうか、オンラインですぐにわかるからなあ。図書館を倉庫と思えば、それでいいかな、と。よほど好きな本、参照することが多い本以外は、図書館にあればいいかと。トランクルームのように考えるといえばいいのか。ちゃんと整理して置いていてくれるわけだし。
 読書論は、いかに本を手に入れるか、どのように読んでいくのか、から、自分が去った後、蔵書をどうしたらいいのかにテーマが移ってきているのだなあ。資産形成よりも遺産相続に関心が移っているみたいな...。『蔵書一代』と『百歳までの読書術』を続けて読んでみて、本をめぐる環境もずいぶん変わったものだと改めて思いました。蔵書をどうするか、本をどう残していくのかは、本をどう殺さないか、という大切な話でもあるけど、どこかさびしいなあ。