「三度目の殺人」ーー“事実”はわかるようで、わからない。人間だから

 遅ればせながら、見ました。

  是枝裕和監督の「三度目の殺人」。福山雅治演じるエリート弁護士と、会うたびに発言が変わる役所広司演じる殺人犯の物語。是枝監督らしく明確な解答は出さない。そのもやもやのなかに人間が描かれる。映画を通じて、ひとがひとを裁くということの難しさ。簡単にわかりそうで、わからない「事実」というものの存在をみることになる。

 映画を見ていて、知り合いの弁護士が、裁判で最も難しいのは「事実」の認定だと話していたことを思い出した。そのひとは民事の弁護士だが、民事の争いでも、依頼人が本当のことを話しているのかどうかは、裁判になって相手側の発言と照らし合わせてみないと実はわからないという。

 事実を話していないと意味も、必ずしもウソをついているということではなく、記憶違いもあれば、勘違い、誤解もある。自分に都合がいいように記憶が書き換えられている場合もある。客観的には事実ではなくても、本人の脳のなかでは揺らぎない事実になっている。人間とは、そういうものらしい。

 世の中には、息をするにように、嘘をつく人もいる。どれだけウソを本人が意識しているのかもわからない。その場の空気や気分によって、事実をつくる。役所広司が演じているのも、そんな人のようにみえる。そうした人を前にすると、普通の人は混乱の極致に陥る。それが福山の役。事実とは何かということもわからなくなる。

 人間が人間である限り、ひとがひとを裁くというのはなかなか難しいことだと改めて思う。AIが進化すれば、裁判など簡単にできるという人がいるが、問題は、インプットされたデータそのものが事実かどうか、わからないこと。データが事実かどうかもAIは正確に判断するのだろう。確率論か。

 ともあれ、法廷物を是枝監督が撮ると、こういう感じになるのか、という映画でした。答えは出さず、考えさせる。ひとがひとを裁く究極の判決である死刑制度についても考えさられる。