ウンベルト・エコ『「バラの名前」覚書』

「バラの名前」覚書

「バラの名前」覚書

 ウンベルト・エコが『薔薇の名前』創作の過程について語った本。自分の作品を通した文学論にもなっている。
 目次で内容をみると

タイトルとその意味
作業過程を物語る
言うまでもなく、中世から
仮面
宇宙論的行為としての小説
誰が語るのか
逆言法
ペース
読者をつくりだす
推理小説形而上学
気晴らし
ポストモダニズムアイロニー、快楽
歴史小説
むすび

 いくつか印象に残ったところを抜書きすると...

 私が小説を書いたのは、そうしたかったからである。私はある物語をやり始めるのに、それが十分な理由であると思っている。人は生まれつき物語る動物なのだ。

 村上春樹も同じなのだろうな。

 当時、持ち上がった危険は“サルガリズム”と呼べそうなものだった。エミーリオ・サルガーリの作中人物たちが敵に追われて熱帯の原始林の中に逃げ込み、バオバブの木の根っこにつまづくと、作者は筋の展開を中断して、われわれにバオバブについての植物学的授業を行うのである。今日では、こういうやり方はステレオタイプ−−われわれが愛してきた人びとの欠陥のように親しいもの(痘痕も靨)−−と化しているが、しかしそれはほとんど模倣には値しないものなのだ。

 サルガリズムは長編小説、特に歴史小説にありがちだなあ。

 原稿を読んでから、出版社の友人たちは、最初の百ページが非常に難しくて注文が多いように思われたため、私にこれらを縮めるようにアドバヴァイスした。しかし、私はためらうことなく、拒否した−−およそ大修道院の中に入り込み、そこで七日間を過ごそうとするような人は、大修道院のペースを受け入れねばならない、との主張を貫いて。それができないのであれば、その人は書物全体を読め終えることは決してできないであろう。だから、最初の百ページは苦行ないしイニシエーションのような機能を果たしているのであり、それが気にくわぬ者は不運に見舞われる。丘の麓にただずむことになるからだ。
 ある小説に入り込むのは、山登りにかかるようなものである。呼吸のリズムを学び、ペースを整えねばならない。さもなくば、やがて息を切らし、取り残されるであろう。同じことは詩にも当てはまる。

 なるほど。ひとつの世界を創り、そこに読者を導くには、こうした方法論もあるのだな。出版社の友人たちが、マーケティング的な観点から、削るように求めるのもわかるけど。このあたり、映画も同じかもしれない。製作者と監督は、フィルムをカットすることをめぐって対立しがち。
 一握りの読者のために書く作家はいるとして、

 それは新しい読者を生み出そうとするテクストと、巷にすでに見つかる読者たちの欲求に応じようとするテクストの相違なのである。後者の場合、われわれが手にするのは、効果的な、マスプロダクションの図式に則して書かれた、“出来合いの”本である。つまり、作家は一種の市場分析を行い、その作品を市場分析の結果に合わせるのだ。彼が或る図式に則して仕事をしていることは、遠くからでも明らかである。彼が書いたさまざまな小説を分析してみるだけで、それらすべてにおいて、彼が名前、場所を変えたり、特徴を変えたりしながらも、要するにいつも同じ話−−公衆が彼にすでに要求していた話−−を物語ったことに人は気づくのである。
 逆に、作家が新しいことを計画し、違う種類の読者を念頭に置くときには、ただ明らかなった諸要求を記録するだけの市場分析者に堕することなく、むしろ、時代精神を見破ろうと努める哲学者になろうとする。彼はたとえ読者たち本人も何を要求すべきか知らない場合でも、彼らにそれを啓示したがる。彼は読者たちに、自分たちが何物であるかを暴こうとするのである。

 含蓄のある言葉だな。それがエンターテインメントとアートを分けるものかもしれない。