三島由紀夫「サド侯爵夫人・わが友ヒットラー」

サド侯爵夫人・わが友ヒットラー (新潮文庫)

サド侯爵夫人・わが友ヒットラー (新潮文庫)

 2編とも三島由紀夫の戯曲。「サド侯爵夫人」は女性だけ、「わが友ヒットラー」は男性だけの舞台。3幕モノだが、いずれも場面はひとつ。時間の流れが幕を分ける。どちらも面白かった。言葉、また言葉。「サド侯爵夫人」は、マルキ・ド・サドが登場しないまま、サドと夫人が語られる。渋澤龍彦の「サド侯爵の生涯」に描かれたルネ夫人にインスピレーションを得たらしい。渋澤の本も読んでみたくなった。もうひとつの「わが友ヒットラー」は、「長いナイフの夜」と呼ばれるナチスのエルンスト・レーム(突撃隊、右派)、グレゴール・シュトラッサー(左派)の粛清を描く。ラストの「そうです、政治は中道を行かなければなりません」というヒットラーの台詞がいかにも人を食っている。だが、「フランス革命」でも、ロベスピエールの恐怖政治は、右派と左派の粛清だった。中道というのは意外と恐ろしいものかもしれない。右派と左派が対立している状態こそ、健全な民主主義なのだろうなあ。最後に、三島による「自作解題」が付いていて、これも読ませる。最後に、こんなことを書いていた。

 炯眼の観客は女らしさの極致というべき『サド侯爵夫人』の奥に、劇的論理の男性的厳格さが隠されており、男らしさの精髄ともいうべき『わが友ヒットラー』の背後に、甘いやさしい情念の秘められていることを看破するにちがいない。やはり劇は、陰陽の理、男女両性の原理によってしか動かないのである。

なるほど。そして、こう続く。

 『サド侯爵夫人』における女の優雅、倦怠、性の現実性、貞節は『わが友ヒットラー』における男の逞しさ、情熱、性の観念性、友情と照応する。そしていずれもがジョルジュ・バタイユのいわゆる「エロスの不可能性」へ向って、無意識に衝き動かされ、あがき、その前に挫折し、敗北していくゆくのである。もう少しで、さしのべた指のもうほんのちょっとのところで、人間の最奥の秘密、至上の神殿の扉に振れることができずに、サド侯爵夫人は自ら悲劇を拒み、レームは悲劇の死の裡に埋没する。それが人間の宿命なのだ。
 私が劇の本質と考えるものも、これ以外にはない。

 2つの戯曲を読んでみて、納得です。