オルハン・パムク『雪』

雪

 ノーベル文学賞を受賞したトルコ人作家、オルハン・パムクの小説。アルメニア国境に近いトルコの地方都市を舞台にトルコの政治、社会が描かれる。
 トルコの国が抱える文化的な相克は、日本に似ていると感じる。明治に日本が脱亜入欧によって近代化を目指したように、トルコもイスラムを脱し、欧州化するところに近代化への活路を見た。政教分離、世俗化を徹底し、イスラムで女性が義務付けられる髪を覆うスカーフを学校で禁止する。欧州化することは進んだことで、イスラムは遅れたものとみる。しかし、イスラムは生活に根ざしたものであり、心の奥深くに存在し続け、一方で、いくら欧州化しても、ドイツのトルコ移民が象徴的なように、欧州では見下された民族として取り扱われる。さらに、貧富の差がのしかかり、またイスラム原理主義が世俗派とイスラム派の対立を複雑、過酷なものにする。
 そうした状況を一つの地方都市の数日間の出来事を通して描く。筆者の友人である主人公の詩人、Kaはきわめて人間的で、純粋さも、弱さも、ずるさも持つ。その心の揺れ動きがトルクの複雑な政治・文化的状況を描き出す。それはトルコだけではなくて、日本にも通じる。欧米を追いかけてきた国々に共通する何とも居心地の悪い状況を見せてくれる。欧米を理想として追いかけながら、受け入られず、土着的なものをどこかしら嫌悪しながら、激しく心惹かれ、やすらぎを覚える。そのアンビバレントな感情を描く。そして、政教分離原理主義イスラム原理主義も生み出すものは暴力と流血になる。そうしたなかで、どのように生きていくのかは難しい。亡命という形で、海外に逃れることは一時の安全をもたらしてくれても、創作の活力も奪ってしまう。
 そんなこんな、いろいろと考えさせられる小説だった。パムクの作品をもっと読んでみようかと思う。ただ、『雪』は、著者唯一の政治小説というから、他の作品はまた違うテイストなのだろうか。この小説も政治的状況の中に投げ出された人間の物語で、描かれているのは人間だった。
 最後に、いくつか、印象に残ったフレーズを抜き書きすると...

 コミュニストには二種類あります。一つは、民衆を教育するために、国を発展させるためにこの仕事を始めた誇り高い人たち。もう一つは、正義と平等の意識でこの仕事を始めた人たちで、彼らは無邪気です。前者は国家支配を考えて、誰彼に、こうしろ、ああしろと言う。彼らからは悪いことのみが来る。後者は彼ら自身にのみ悪いことが起こる。しかし彼らが望んだ唯一のものは、元々このことだったのです。貧乏人の苦しみを罪悪感で分かち合おうと思った時、もっとひどい目にあうのです。

 政治だなあ。コミュニストだけではないかも。
 詩人について...

長い間幸せだと平凡になる。長い間不幸だと、詩に生気を与える力が自分になくなる......幸せと真の詩は、ごく僅かの時間しか一緒にいられない。しばらくすると幸せが詩と詩人を凡庸にする。あるいは真の詩が幸せを壊す。

 文学だなあ。
 イスラム原理主義者である「紺青」の言葉...

 西の人々が考えているように、我々がここで我々の神とこれほど強く結ばれている理由は、かくも貧しいことではなく、なぜこの世にいるのか、そしてあの世でどうなるかに誰よりも関心を持っているからだ。

 経済からの発想だけでは、原理主義の問題は理解できないのだろうなあ。