ジョージ・ソロス『ソロスの講義録』

ソロスの講義録  資本主義の呪縛を超えて

ソロスの講義録 資本主義の呪縛を超えて

 ヘッジファンドのカリスマでありながら、市場原理主義を厳しく批判し、「開かれた社会」の重要性を主唱するジョージ・ソロスが祖国ハンガリーの大学で5回にわたって行った講義の記録。大学の講義らしく、観念論的になっているところもあるが、生い立ちから経済学論議、そして金融市場、米国、中国を語っていて面白い。経済の世界は合理性だけで語れる世界ではないことを何度も強調している。市場は統制よりはましだとしつつも、だからといって市場が完全だなどとはいわない。現実のマーケットを戦ってきた人らしい議論になっている。
 目次で、内容を見ると...

第1講義 人間不確実性の原理
第2講義 「再帰性」と金融市場
第3講義 開かれた社会
第4講義 資本主義VS.「開かれた社会」
第5講義 未来へ向けて

 ソロスは、米国の没落を強調しているが、それは経済的な面だけでなく、倫理的荒廃が背景にある。読んでいて、面白かったところ、興味を惹かれたところを抜書きしてみると...
 まず、ソロスが言う「バブルの7段階」。

 バブルは、どれも同じ段階を経て成長し、崩壊するものなのです。具体的には(1)開始(2)加速(3)中断と、試練の克服による強化(4)黄昏の時間(5)頂点(逆転)(6)下向きの加速(7)金融危機の7段階です。

 なるほどね。不確実性とボラティリティについて...

 不確実性の表現の一形態が、ボラティリティーです。ボラティリティーが増大すると、リスクを減らさなくてはならなくなります。ケインズが言った「流動性選好の増大」の根っこにあるのは、この論理です。金融危機で発生する、ポジションの強制的な解消の、さらなる要因でもあります。金融危機が落ち着き、不確実性の幅が狭まると、ほぼ自動的に株式市場では活気が戻るものですが、それは流動性選好の増加が止まって減少に転じたことを示しています。

 日本はいま、流動性選好が収まるかどうかの境界線上にいるのかな。
 市場原理主義について...

 この「超バブル」における「支配的なトレンド」は、信用経済の膨張と、レバレッジの使用の増加がとどまることなく続くというものでした。そして「支配的な誤解」は、金融市場には自己修正の能力が備わっているから、自由放任政策が最善である、という考え方です。かつて、レーガン大統領が「市場のマジック」と呼んだものですが、私はこの考え方を「市場原理主義」と名付けました。市場原理主義が世界的に主流派の思想となったのはアメリカがレーガン政権、イギリスがさっちゃー政権だった1980年代のことです。

 事情原理主義に批判的なソロスだから、銀行の行動も規制すべきだという。

 「大きすぎて潰せない」銀行に関して言えば、レバレッジを減らし、融資先に関して、さまざまな制約を課するべきです。預金は、たとえば自己資金勘定の取引に使われるべきではありません。

 ウォール街は反発している規制策だけど、ソロスは賛成なのだ。報酬についても...

 銀行で自己資金勘定を扱うトレーダーの報酬は、規制されるべきでしょう。銀行の場合、政府による保証のおかげでリスクが低いのですから、その職員の報酬にも制約が課せられるべきなのです。高額の報酬に値すると自分を評価するトレーダーは銀行を辞めて、規制がなく、保証もないヘッジファンドに移ればよいだけのことです。

 カネが欲しいなら、裸で勝負してみいや、と言っているみたいだなあ。ソロスが言うと、迫力があるけど。
 金融危機対策について...

 短期的な行動としては、第一に、蒸発してしまった信用通貨を、唯一信用を失わなかった機関、つまり国家が補填する、というものがあります。これは、政府債務を増やして、ベースマネーを増やすことを意味します。やがて経済が安定するとともに、ベースマネー信用創造の復活と同じペースで減らさなくてはなりません。この「出口戦略」がなければ、デフレの危険性は、インフレの危険性に置き換えられるだけのことです。

 これは今の日本の経済論争の出発点だなあ。で、日本の場合、出口ばかり気にして、国家の補填が不十分だったところが問題なのだろうけど。
 「啓蒙の誤謬」、その中心にある「豊穣の誤謬」について...

 私たちは知識を獲得することは可能だが、すべての判断を知識をもとづいてくだすのに十分なだけの知識を得ることは決してないとうのが、その前提です。そして有益さが証明された知識は過剰に使用される傾向にあり、それが有益でない分野にも応用され、ついには誤謬になるという傾向を、この前提から導き出すことができます。

 あるなあ。そして、ソロスは米国の現状に絶望しているように見える。開かれた社会のモデルとも言えるような米国で、ブッシュ政権の情報操作が成功したのはなぜか。

 アメリカ人は、真実の探求に特に関心があるわけでないからです。アメリカ人は、日を追って洗練の度合いを増している心情操作のテクニックによって条件付けられており、今では騙されることを気にしなくなっているのです。騙されたがっているようにさえ見えます。
 アメリカ人は、上方を受け取って自分で考え、吟味するよりも、出来あいの大雑把なメッセージをそのまま飲み込むことに、すっかり慣れてしまいました。娯楽のほうが上方よりも大切な国民になったと言っても、よいと思います。

 ずいぶんペシミスティックだなあ。でも、この傾向、米国だけではないかも。そのブッシュ政権プロパガンダ担当者の言葉...

 「われわれが行動する時には、まず、自分たちなりの現実を作るのだよ。そして、あなたがその現実を丁寧に研究している間に、われわれはまたしても行動を起こし、次の、新しい現実を作り出すのさ」

 これは米国の話、政治の世界だけの話ではないかも。企業も広告代理店も、同じような行動パターンじゃないだろうか。
 代理人(エージェント)問題について

 「代理人問題」というのは、依頼者の利害を第一に考えて行動すべき代理人が、えてして依頼人のことを無視して、自分の利益を優先させてしまうという問題のことです。

 これも世界共通。代議士も代理人のひとりかもしれない。
 「天然資源の呪い」という言葉もある。

 「天然資源の呪い」というのは、天然資源が豊かな国にかぎって、まるで呪いでもかけられたかのように、政治腐敗、暴政、内乱、内戦などに悩まされ、資源に乏しい国に比べると、かえって人々の生活は貧しく、惨めであるというパラドックスを表現する言葉です。コンゴスーダン、シエラ・レオネ、リベリアなどというアフリカの国々の例を考えていただければ、わかりやすいと思います。

 これもそうだなあ。
 ソロスは市場原理主義を批判するが、反市場主義者ではないという話...

 ここで、私は自分の立場をはっきりとさせておきたいと思います。私は市場原理主義が、偽りの危険な教義であると考え、事あるごとにこれを非難しています。しかし、私は同時に、市場原理主義者と同様、政府による経済への介入やその規制を最低限にとどめておくべきだと考えるものであります。

 ただ、市場を絶対視し、カネの力にモノを言わせて、世論や言論を操作する金満・市場原理主義者にはかなり批判的で、こんな話も...

 市場原理主義は、効率的市場仮説と混同されてはなりません。効率的市場仮説にもとづいた研究をする経済学者で、市場原理主義者でない者など、いくらでもいます。経済学者の多くは、心やさしいリベラル派なのです。ところが、効率的市場仮説は、市場原理主義を奉じる資本家や財団法人による寄付を通じてアメリカの大学における経済学教育をがっちり押さえています。資本家や市場原理主義派の財団法人は、他にも市場的価値観を法学や政治学など、経済学以外の研究領域にも浸透させています。

 すごい不信感だなあ。こうした市場原理主義派の情報操作に対する批判は、この本の随所に出てくる。ロビイストによって米国の政治は買われてしまったという思いが見える。
 世界経済の未来図としては、米国の没落、中国の台頭を語っている。ブレトンウッズ体制など戦後の経済システムは米国に最適化されていた。新たなブレトンウッズ体制ができるのかどうか。中国が「開かれた社会」になり、リーダーシップをとれるのか。2013年初頭の現実を見ると、まだ、そうした展望は開けないなあ。