山本義隆『福島の原発事故をめぐって』
- 作者: 山本義隆
- 出版社/メーカー: みすず書房
- 発売日: 2011/08/25
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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それぞれの事柄はいろいろなところで断片的には語られたりはしているのだが(既に日本は核兵器を1000発製造するだけのプルトニウムを保持しているとか)、それを理系の人らしく、系統だって論じているので、問題が明解に浮かび上がる。核武装論争とか、もはや有名無実と化している核燃料サイクル問題とか、このところ小泉・元首相が主張している核廃棄物の処理問題とか、もろもろの論点に目をつぶった上での原発推進論だったという感じがする。この本の副題は「いくつか学び考えたこと」だが、既に事故から3年近くがたち、事故は収束していないのにもかかわらず、その「学び考えたこと」を忘れてしまったような世の中になってしまった気がしてくる。
核武装オプションを念頭にした原発を推進した保守派政治家の代表格として、この本では岸・元首相の存在が強調されているが、その孫、安部首相は祖父の意思を貫徹する心づもりなのだろうか。改憲、核武装、そして大国・日本という新・大日本主義なのかなあ。それじゃあ、その向こうを張って、石橋湛山のように小日本主義を象徴する政治家は出てこないんだろうか。そんなことも読んでいるうちに考えてしまった。
目次で内容を見ると...
1.日本における原発開発の深層底流
1・1 原子力平和利用の虚妄
1・2 学者サイドの反応
1・3 その後のこと
2.技術と労働の面から見て
2・1 原子力発電の未熟について
2・2 原子力発電の隘路
2・3 原発稼働の実体
2・4 原発の事故について
2・5 基本的な問題
3.科学技術幻想とその破綻
3・1 16世紀文化革命
3・2 科学技術の出現
3・3 科学技術幻想の肥大化とその行く末
3・4 国家主導科学の誕生
3・5 原発ファシズム
全共闘世代の論客として知られた人なので、難解な文章ではないかと思ったら、もともとが雑誌のために書かれた原稿のためか、平易で読みやすかった。内容は重いが...。
で、印象に残ったところをひとつ...
20世紀に大きな問題になった公害の多くは、なんらかの有用物質の生産過程に付随して生じる有害物質を、無知からか、あるいは知ってのうえでの怠慢からか、それとも故意の犯行として、海中や大気中に放出することで発生した。ひとたび環境に放出された有害物質を回収するのは事実上不可能であるが、技術の向上と十分な配慮により廃液や排気を濾過し、そのような有害物質を工場外に出さないようにすることが不可能ではなく、またこうして発生源で回収されたそれらの有害物質を技術的に無害化することも、あるいはそのような技術が生みだされるまで保管しておくことも多くの場合可能である。というのも、それらの有害物質は分子の性質(原子の結合の性質)であり、原理的には化学的処理で人工的に転換可能だからである。それゆえ、排出規制を十分に強化することによって解決しうるものも多い。いずれにせよ有害物質を完全に回収し無害化しうる技術をともなってはじめて、その技術は完成されたことになる。
それにたいして、原発の放射性廃棄物が有毒な放射線を放出するという性質は、原子核の性質つまり核力による陽子と中性子の結合がもたらす性質であり、それは化学的処理で変えることはできない。つまり放射性物質を無害化することも、その寿命を短縮することも、事実上不可能である。というのも、原子力(核力のエネルギー)が化石燃料の燃焼熱(化学エネルギー)にくらべて桁違いに大きいことが原発の出力の大きさをもたらしているのであるが、そのことは同時に核力による結合が化学結合にくらべて同様に桁違いに強いことを意味し、そのため人為的にその結合を変化させることがきわめて困難だからである。(略)
無害化不可能な有毒物質を稼働にともなって生みだし続ける原子力発電は、未熟な技術と言わざるをえない。
そうなんだよなあ。説得力あるなあ。ただ、反成長主義になりがちなところが脱原発の共感が広がり切らずに、限界が生じるところなのだろうか。反成長というよりも、サステイナブルという言葉で、脱原発を語ったほうがいいんだろうなあ。