ヨアヒム・フェスト「ヒトラー 最期の12日間」

ヒトラー 最期の12日間

ヒトラー 最期の12日間

 映画が話題になっているが、これはその底本。ヒトラーとナチズムは人間と社会の「悪」を考える上で興味が尽きない。なぜ、あれほどまでに残忍になることができたのか。しかも、曲がりなりにも議会制民主主義の枠組みの中で政権が誕生し、官僚機構は非人間的な「悪」を粛々と処理し、殺人マシンと化してていった。その不気味さ。ヒトラーの最期の日々を描いた、この本は、そうした疑問に答えてくれるものがある。
 印象に残ったところがいくつもある。例えば、ヒトラー政権を歓迎したドイツの空気にについて…

 ワイマールの混乱の後、(ドイツ国民の)ほとんど全員が多くの面で、いわばドイツ的「几帳面さ」の回復を欲していた。その欠如を彼らは、約14年間という耐え難いほどの長い年月、痛感してきたのである。

 戦車、航空機、毒ガスなどが駆使された世界最初の機械化戦争「第1次大戦」の想像を絶する悲惨さ、戦後の超インフレ、そして大恐慌という社会的混乱を無視して、ナチズムは語れないだろう。加えて、英国、フランスなど西欧列強に敗北した中欧、ドイツの社会ムードとして

ドイツ人はこれまで何年もの間、民主主義、法治国家、そして「西欧的」価値観に、むりやり適応させられてきた。それが今、少しは本来の自分にたちかえり、反抗的役割に戻ったのだ。それは、人々の言い分によれば、ドイツ人が太古の昔からヨーロッパで演じてきた役割だった。

 ローマ帝国を破ったケルスキ族に重ね合わせた解釈まであったという。映画「グラディエーター」は、ローマ軍がゲルマニアで戦っているところからスタートするが、あの時代まで、民族の精神史はさかのぼっていくのか。そして、こうした反「西欧」の気分は日本にも共通する。三国同盟は、そうした気分の共有もあったのだろう。
 大衆の気分を利用することを長けたヒトラーは、第1次大戦で失った領土の回復を狙う旧・支配層とも利害が一致していたという。

 旧支配層のグループは、大博打を打つヒトラーの気まぐれやその略奪的傾向などには大いに懸念を抱いていたにもかかわらず、このナチ党の総統の中に、現状修正を求める自分たちの意図を実現してくれそうな気配を嗅ぎとった。あらゆる障害を乗り越えて、ヴェルサイユ条約および国民の間に蔓延する屈辱感を、国民動員のための統合手段として利用する術をこれほどまでに心得ていた人物は、いずれにしてもヒトラー以外にはいなかった。

 ただし、ヒトラーを操ろうと思っていたエスタブリッシュメントも読み違えていた。

 ヒトラーを支援し、そのお先棒をかついだ人々が考えていなかった、おそらく予想だにしていなかったことは、空想と「冷血」な計算が奇妙に入りまじった彼のヴィジョンを、ヒトラー自身が一字一句そのまま実行に移そうと決意していたことである。

 ヒトラーは領土の回復で止まらず、世界大戦へと突き進む。そして、敗北が決定的になったとき、自国を焦土と化す命令をくだす。ヒトラーは、敗北するのならば、ドイツ民族が絶えようがどうしようが関係ないと思っていたという。

 ヒトラーは、歴史上、類例のない自己中心主義によって、この国の存続をみずからの人生の時間と一体化させた。(中略)土壇場に至って、ヒトラーは、政治世界に漂着した賭け事師にすぎなかったことをさらけ出した。それも「すべてを」賭け、そして負けた賭け事師だったこを。その背後にかいま見えたもの、それは「虚無」だった。

 ニヒリズムこそ、ナチズムの特徴とも言われる。そして「破壊への意志」

 問題はむしろ、ずっと前から敗北することが分かっていたこの帝国に、その断末魔のあがきにいたるまで、一つのエネルギッシュな牽引力が作用していたように見えることである。その牽引力は、単に戦争を長引かせるだけではなく、文字通りこの国を破滅させることをめざしていた。

 そして、ヒトラーは、ワーグナーのオペラさながら、自らを壮大な悲劇の主人公として、ベルリンに果てようとしていたという。

 ヒトラーの側に憤怒と衝撃しかなかったというのは、当たらない。そこにはむしろ、破滅的状況の中でこそわきあがる複雑な達成感があった。それがあったればこそ、ヒトラーは迫る敗北を歴史的な滅亡スペクタクルとして演出できたのである。

 ヒトラーは戦争に勝つことというよりも、破壊自体が戦争目的になっていたようにみえる。限られた軍事的な資源を強制収容所に割くというのは戦争遂行上は無意味だ。
 しかし、一方で、この破壊の衝動と滅亡のスペクタクルに、その時代の人々が飲み込まれてしまった。それも大恐慌後の殺伐とした社会環境があったからだろうか。こんな一節もあった。

 国内防衛に当たっていた部隊が単に絶望し、上からの命令でやむなく死地におもむいたと考えるのは早計である。現実はむしろ、彼らのうち少なからぬ者たちが最後の日々がもたらした戦闘の混乱の中で、うまく表現できないまでも報われたと感じていた。あらゆる理性を超えて、この抵抗の正当性を彼らに感じさせる手助けをしたのは、いったい何だったのか。それは単に、世界で真に偉大なものはすべて死と滅亡によってあがなわれるという骨身にしみこんだ観念だけではなかった。それよりもむしろ、彼らは世界史的悲劇の終幕を演じる登場人物として召し出され、さらに高められているとさえ感じていた。悲劇もこれほどの規模になれば、一見無意味に見えるものに高邁な意味を与えられるのだと、彼らは教えられてきた。出口なき状況への偏愛は、はるか以前から、ドイツ思想の少なくともある一部に特徴的な性格だった。

 ともあれ、ヒトラーとは何だったのか。

 ヒトラーに対してドイツ人が心に抱いたことといえば、当時盛んに使われた言葉で使えば、虚無でしかなかった。それでもヒトラーの中に一時代を画する役割を読み込もうとする試みはあったが、いずれもむなしい努力に終わった。たしかに多くの人々にとって、彼はある時期、あまりにも不気味な存在に思えた。しかし大多数の人々を魅了し、圧倒し、あまりにも長い間、金縛りにしたものは、唯一、ヒトラーその人自身だったのである。ヒトラーを生涯にわたって前進させた凶暴な牽引力となったのは、ひとえに強者の権利という文化以前の法則だった。それだけが、ヒトラーが自分の世界観として打ち出し得たものの最初であり、最後であった。

 その野卑な、原始的なエネルギーは、官僚たちも飲み込まれた。撤退を進言しに行った国防軍の将軍たちさえ、ヒトラーと面と向かうと、まるめこまれてしまったという。ダークサイドの魔力があったのだろう。官僚は論理的な問題には強いが、論理を極端に超えた壮大なホラ話には意外と飲み込まれてしまいやすいと言っていた元・官僚の人がいたが、ヒトラーの魔力は、そうした魔力だったのかもしれない。ヒトラーは、反文明、反文化、反社会と言うよりも、非文明、非文化、非社会という異人種であり(「反」はまだ議論が成立するが、「非」は、もともと価値を認めないので議論を拒否する)、それゆえ、強力なダークサイドを作り上げたのだろう。これは今の時代にも通じるだろう。
−−などなどと冗長なメモを取るほど、刺激的な本でした。