ニコラス・G・カー『ネット・バカ』

ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること

ネット・バカ インターネットがわたしたちの脳にしていること

クラウド化する世界~ビジネスモデル構築の大転換 タイトルだけ見ると、「ネットばっかりやっていると、バカになるぞ」というプレ・インターネット世代の繰り言のように思われてしまうかもしれないが、『クラウド化する世界』の著者でもあるカーが、そんな浅薄な本を書くはずもない。副題に「インターネットがわたしたちの脳にしていること」とあるように、インターネットの登場以降、ウェブメディアの登場によって、人間の思考がどう変わっていったのか(そして、どう変わっていくのか)を真面目に追求した本。インターネット・メディアの可能性と同時に、それがもたらす変化(副作用)を追っていく。うん、うんと頷くところが多い。
 目次で内容を見ると...

プロローグーー番犬と泥棒
第1章 HALとわたし
第2章 生命の水路
第3章 精神の道具
第4章 深まるページ
第5章 最も一般的な性質を持つメディア
第6章 本そのもののイメージ
第7章 ジャグラーの脳
第8章 グーグルという教会
第9章 サーチ、メモリー
第10章 わたしに似たもの
エピローグーー人間的要素

 これで最後に「もっと知りたい人のための文献一覧」がついている。買ったままで、まだ読んでいないマーシャル・マクルーハンの『メディア論』はやっぱり読んでおかないと、まずいかなあ、と思ってしまった。
 で、印象に残ったところをアットランダムに抜書きすると...

 マクルーハンが予言したとおり、われわれは知性の歴史、文化の歴史における重要な接合点に、まったく異なる二つの思考モード間の、移行の瞬間に到達したように思われる。ネットの豊かさと引き換えにわれわれが手放したものーーよほどのひねくれ者でない限り、この豊かさを給費したりしないだろうーーは、カーブの言う「かつての直線的思考プロセス」である。冷静で、集中しており、気をそらされたりしない直線的精神は、脇へ押しやられてしまった。代わりに中心へ躍り出たのは、断片化された短い情報を、順にではなくしばしば重なり合うようなかたちで、突発的爆発のようにして受け止め、分配しようとする新たな種類の精神であるーー速ければ速いほどよいのだ。

 うまい表現だなあ。まさに、そのとおり。これは受け手の話だが、発信側の話も。

わたしは2000年代初めからフリーランスのライターとして、主にテクノロジーに関する文章を執筆していたのだが、論文や書籍を発表するのは時間のかかる面倒なことで、しばしばフラストレーションのたまる作業だと思っていた。必死で原稿を書き、出版社に送ると、採用拒否の手紙を付けて送り返されてこなければ、次は編集作業、事実関係の確認、校正作業となる。完成品が出てくるのは何週も何か月もあとのことだ。それが仮に書籍だとすると、印刷された状態になるまで1年以上も待たねばならない。だがブログは、伝統的出版構造を粉々に打ち砕いてしまった。何かをタイプし、ちょっとリンクを貼って「公開」のボタンを押しさえすれば、作品はただちに発表され、世界中の人々が見られるものとなる。

 わかるなあ。で、再び読み手として

ハイパーリンク検索エンジンのおかげで、わたしのスクリーンには言葉が、サウンドが、動画がきりなく供給された。出版社が有料サーヴィスの壁を取り払うと、無料コンテンツの波は津波に変わった。(中略)わたしはマイスペースフェイスブック、ディグとツイッターのアカウントを取った。新聞や雑誌の購読契約更新を怠るようになった。そんなもの誰が必要としているのだろうか? 朝露で湿っているかどうかはともかくとして、印刷された記事が届くころには、すでに読んでしまったような気になっていたのだから。

 さらに...

それは単に、コンピュータ・スクリーンを見つめることに時間を使いすぎているというだけの話ではない。ネットのサイトやサービスに慣れ、頼るようになるにつれ、自分の習慣や日常行動が変わったというだけの話でもない。脳の働き方自体が変わりつつあるように思えたのだ。ひとつのことに数分かそこらしか集中できなくなっていることを、不安に思い始めたのはそのころだった。最初わたしは、脳の年齢的な衰えのせいだろうと考えた。だが気づいた。わたしの脳は、単にふらふらさまよっているだけではない。飢えていたのだ。ネットが与えてくれるのと同じだけの量を食べさせてくれと、それは要求していたーーそして与えられれば与えられるほど、さらに空腹になるのだった。コンピュータを離れているときも、わたしはメールをチェックしたり、リンクをクリックしたり、ググってみたりしたくてたまらなかった。接続していたかったのだ。マイクロソフトのワードが、血と肉を持ったワープロへとわたしを変えたのと同様に、インターネットはわたしを、高速データ処理機械、いわば人間版HALへと変えたのだとわたしは気づいた。

 ここまで来ると、怖い話だなあ。
 こんな話も...

グーテンベルクの発明から50年のあいだに生産された本は、それ以前の1000年間にヨーロッパ全土の筆写者たちが作り出した本と同じ数だという。(略)ヨハン・フストは営業を始めたばかりのころ、印刷した本を大量に持ってパリ入りしたところ、悪魔と結託しているのではと疑う憲兵によって、街を追い出されたという話だ。

 歴史は面白い。次にこんな話...

 ネット検索を行なうときと、本を模倣したテクストを読むときとで、脳の活動パターンがきわめて異なることがわかったのである。本を読む人の脳は、言語、記憶、資格処理と関連する領野が活発に活動するのが観察されたが、決定や問題解決を行なう前頭前野では、あまり活動が見られなかった。これに対して、熟練したネット使用者の脳では、ウェブページをスキャンしたり検索したりするとき、それの領野すべてで大規模な活動が観察された。ここでわれわにとって吉報であるのは、ネット・サーフィンは脳の多くの機能に関与するので、高齢者の脳を明晰に保つ助けになるかもしれないということだ。

 ネットサーフィンはボケ防止になるということか。ただし、この後に出てくるマルチメディア教育とテクスト教育の比較では、マルチメディアのほうが面白いといわれるが、教育効果ではテクストという結果が出たという指摘もある。こんな話も...

 ドイツの研究者たちは、ほとんどのウェブページは10秒以下しか閲覧されていないと報告していた。2分より長く見られているページは1割もなく、かなりのものは「注目されていない状態で.......ほかのウィンドウの背景にされている」。(略)「ユーザーはウェブ上でどのように読んでいるのか?」それに対する簡潔な答えはこうだった。「読んでいない」。

 そうかも。最後に...

国立神経疾患・卒中研究所の認知神経科学部門の長であるジョーダン・グラフマンの説明によれば、オンラインで絶え間なく注意をシフトすることは、マルチタスクに際して脳をより機敏にするかもしれないが、マルチタスク能力を向上させることは、実際のところ、深く思考する能力、クリエイティヴに思考する能力をくじいてしまう。「マルチタスクのための最適化は、脳のよりよい機能へと至るのだろうかーーつまり、クリエイティヴィティや独創性、生産性へつながるのだろうか。答えはたいていの場合、ノーだ。マルチタスクをやればやるほど、じっくり考えることをしなくなる。考えたり、問題を論理的に解決したりすることができなくなるのだ」とグラフマンは言う。彼の主張によれば、そうなれば人は、オリジナルな思考で問題に取り組もうとするのではなく、お決まりのアイディアや解決策にもっと頼るようになるのだという。

 なるほどぉ。ネットは便利だけど、クリエイティヴィティを失わないためには、ときどきネット断食・情報断食をしたほうがいいということだろうか。
 ともあれ、いろいろと刺激になる本でした。