「ギャツビー」で読売に村上インタビュー

 スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー」の新訳を出した村上春樹に読売新聞がインタビューしていた。そこで、村上春樹は、フィッツジェラルドが追求したテーマは「成熟」であると語っている。

フィッツジェラルドは「グレート・ギャツビー」の)物語の進行の中に成熟の可能性を真摯に希求するのですが、その希求は現実の喧噪の中にむなしく呑み込まれ、実を結ばないまま失われていきます。■それから大恐慌と不況の1930年代がやってきます。華やかな20年代とはうってかわって、ひどく薄暗い時代です。フィッツジェラルドもその時代に、人として作家として成熟し、同時にアメリカ社会も成熟しました。どちらも内省的になり、それなりに成熟せざるを得なかったわけです。■これはおそらく日本のバブル経済と、その破綻と、「失われた十年間」に相当するのではないかと僕は考えています。日本社会もやはりそのような段階を通り過ぎることによって、ひとつの成熟を遂げたのではないかと僕は考えています(というか、そう考えたいと思っています)。
村上春樹 僕の「ギャツビー」(上)読売新聞2006年11月24日朝刊

 なるほど、この小説がわかるようになるのは「成熟」が必要になる。米国社会がこの小説を受け入れるまでに「成熟」を必要としたのではないかという読後感は、この村上氏のインタビューと重なり合うところがある。ともあれ、今までは読み通すことができなかった、この本を味わいながら、読み終えることができたと言うことは、僕自身もそれなりに歳をとって、成熟したと言うことなのかもしれない。でも、日本社会が成熟したかといわれると・・・。