アンナ・ポリトコフスカヤ「ロシアン・ダイアリー」

チェチェン やめられない戦争 プーチニズム 報道されないロシアの現実 2006年10月に暗殺されたロシア人ジャーナリスト、アンナ・ポリトコフスカヤによる2003年12月から2006年8月までの記録。プーチン独裁が鮮明になり、ロシアの民主主義が崩壊していく状況を記録している。2004年のロシア大統領選の不正、モスクワやベスランでのテロ事件での犠牲者たち(テロリストと政府双方の暴力の犠牲者たち)、そしてチェチェンーー事実を追及し、不正を弾劾する。既に読んだ「チェチェンやめられない戦争」「プーチニズム」を読んだときも思ったが、その勇気に感動すると同時に、生命を狙われるのもわかる。最後まで沈黙しなかったから。
 この本を読んでいると、立法、行政、司法の三権分立という教科書にも出てくる民主主義の原則が崩壊してしまった国家がいかに腐敗していくかを痛感する。とりわけ、司法が機能しなくなったとき、公正さというものは消えてしまう。社会主義が崩壊した後、破綻した国家資産が“民営化”されていくわけだが、その過程で、まるで軍・警察・官僚機構が「整理屋」のようになってしまう。社会主義が崩壊し、混迷の後に残ったのは官僚統治主義だったというのは哀しい。しかし、これは、どの国も抱える問題かも。テロとの対決を名目に、米国でさえ、盗聴や逮捕・拘留が大幅に緩和され、官の自由裁量権が拡大している。20世紀は、資本主義対社会主義という構図があったが、21世紀は、官僚主義対民主主義ということになるんだろうか。ロシアの支配形態は極端であるにしても、ロシアの問題を必ずしも他人事とは思えない気もする。
 で、印象に残ったところは・・・

 マスメディアの統制と自己検閲は留まるところを知らない。(中略)今や自己検閲は、沈没しないで泳ぎつづけるためには何を言うべきか、何を言ってはいけないかを判断する能力となった。目的は高い給料、ほかでもなく高給をもらうことだ。職にありつけるか否かではなく、とんでもない高給にありつくか、薄給に甘んずるかの選択なのだ。ジャーナリストなら誰でもインターネット出版に転じれば、かなり自由にものを言える。また自分の考えを比較的自由に述べられる新聞社もまだ二社ほどあるにはある。しかし、自由のあるところには、低額で不安定な給料が待っている。トップレベルに行くのはクレムリンべったりのマスメディアだ。

 米国もフォクステレビの登場以来、メディアのエンターテインメント化が激しく、こちらはスポンサー受けするタイプが好まれる時代になってきているという。硬派ジャーナリズムはネットに行くのか。ただ、ネットメディアはまだビジネスモデルが確立されておらず、不安定。特に、広告主体ではない硬派はそうだろうなあ。これは世界に共通する問題かも。

 ロシア社会がこうした問題を抱えている理由のひとつは、真っ赤な嘘を真実と言いくるめる当局のすさまじいシニシズムだ。しかし、ロシア国民はこれに立ち向かおうとしない。それぞれの殻に閉じこもり、無防備で無口で取りつく島がない。プーチンはこの事実を熟知しており、あからさまなシニシズムをロシアでももっとも効果的な革命防止戦略と心得る。

 これは、官僚機構のシニシズムは日本でも変わらないかも。市民のエネルギーが結集されないことも。
 なぜ、ロシアでは、民主派は嫌われ、プーチンが人気を集めるのか。

 反体制派も民主派もあのエリツィンが真の民主派などとあまりにも長いあいだ人びとを偽ってきた。そんなおとぎ話はもう通用しない時代がやってきただけのことだ。エリツィンを「民主派」と呼んでしまったことで「民主派」という言葉自体の信用を著しく落としてしまった。「民主派」という言葉をロシア語で音の近い「クソ」という言葉に読みかえて、狂信的な共産主義者スターリン主義者だけでなく、国民の大半も使うようになった。(中略)ハイパーインフレが起き、ソビエト時代から人びとがこつこつと貯めてきた預金が消失し、チェチェン戦争が始まり、通貨切り下げが起きたのは「民主派」のせいなのだということになってしまった。

 わかる気がする。
 プーチン体制をからかうジョークがインターネットが出てきたときのコメント。

 彼はもうジョークのネタなのだろうか。あるいは人びとはプーチンにすべてを任せ、ただ停滞期が再び来るだろうと思っているのか。そしてふたたびブレジネフの時代のように陰に回って台所で笑っているのだろうか。革命がやって来るのは最上層からなのだ。上層階級が何かの理由で今の暮らしが続けられなくなったときに。

 ペシミスティックだなあ。現実主義と言った方がいいのかもしれないのは、ペレストロイカも、ソ連の崩壊も、上層階級の抗争といえば、その通りかもしれないなあ。で、こんな決めうちが続く。

 私たちは何が必要かはわかっていても、そのために戦う粘り強さに欠けている。ほとんどすぐに諦めてしまう。棚からぼたもちが落ちてくるのを待つあいだに、人生は通りすぎていく。たとえば、一九九一年にエリートがクーデターを起こしたときも、人びとが支持をしたのはあとからだった。エリートはこの経験から学び、クーデターを起こす気はもうない。政権と穏やかに合意に達したいと考えている。だが、合意は人びとの益にはつながらない。

 アンナ・ポリトコフスカヤはロシアの民衆を愛しながら、変革のエネルギーについては希望をあまり抱いていない。ロシア知識人の変わらぬ心象風景だろうか。こんなコメントが出てくる。

 どうして私たちはこんな欺瞞が許せるのか。私たちはヤポンチクの事件では正義が行われたふりをし、ホドルコフスキーの事件では正義が行われなかったことを喜ぶ。どちらの結果にも拍手喝采する。これは「ロシア人の心は計り知れない」などということではない。ソルジェニーツィンが昔からの習慣なのだとずっと以前に書いていたとおりの、嘘にまみれて生きるという習慣と、暖かな台所が奪われるまで椅子から腰を上げようとはしない怠惰ーーこのふたつが綯い交ぜになったのがロシア人の正体なのだ。私たちは暖かな台所が奪われてから初めて革命に参加する。けれど、それまでは何もしない。

 ソルジェニーツィンかあ。ロシアのインテリの苦悩は受け継がれていくんだな。でも、それでも、アンナ・ポリトコフスカヤは書き続けたわけだな。しかし、こうした体制は今後、どうなるのか。待っているのは社会主義国家、ソ連と同じような官僚制による経済の行き詰まりのように思えるのだが・・・

 何が政権の終焉をもたらすのかはまだ藪の中だ。プーチン政権はどのようにして崩壊するだろうか。現在の反体制勢力はあまりにも脆弱だし、政権を倒そうという目的意識に欠ける。ロシアの人びとが自発的に抵抗運動をするとはもっと考えにくい。ひとつの可能性として、プーチンがネオソビエト体制を構築した場合、かつてのように経済効率が下がり、やがては体制の崩壊につながるというシナリオが考えられる。プーチン政権の特徴は“国家”資本主義であり、国庫のあらゆる主要な歳入(多くは大統領府の副長官やその他のメンバーに管理を委任している)を支配することで、忠実な“官僚”新興財閥をつくりあげようとしている。

 やっぱりね。官僚は経済を効率的に運営するのは下手だから。政治的に運営するのは上手だけど。しかし、だからといって、そう簡単に崩壊するわけでもなさそう。

 プーチン体制の問題は、じわじわと忍び寄る停滞によって崩壊するには、数十年という年月を要することだ。バルト工場がゆっくりと崩壊するのを疑うものは誰ひとりいない。たとえプーチンがロシアの土地を外国や他民族による侵略から守ったにしても。政権のシステムを維持するため次々と役立たずの人間に大統領職が受け継がれるだろう。その特徴は、没個性であり、ソビエト流の選挙、つまりでっち上げられたものとなることだ。

 あたっているなあ。で、こう続く。

 厄介なのは、崩壊は間違いなくやって来るが、私たちが死ぬまでにはそれを拝めないことだ。ぜひともこの目で見届けたいのに。

 アンナ・ポリトコフスカヤは見届けることが出来なかった。2008年のロシア大統領選挙さえ見ることを許されなかった。