村上春樹が翻訳した
レイモンド・カーヴァーの短編小説集。カーヴァーの小説は以前、「ぼくが電話をかけている場所」を読んだことがあるのだが、どうも今ひとつ、ぴんと来なかった。それ以来、敬遠していたのだが、先日、日経朝刊コラム「春秋」欄で、「ささやかだけれど、役にたつこと」がとりあげられていたのを読み、再びカーヴァーに関心を持った。で、その短編が収録されているのが、この「大聖堂」だった。数年ぶりに読んだカーヴァーは、以前とは違って心にしみてきた。「ささやかだけれど」も良かったし、以前はあまり印象もなかった「ぼくが電話をかけている場所」も良かった。時代が変わったのか、自分が変わったのか。かなりの部分、時代が変わってしまったところもあると思う。この本は1980年代の作品のようだが、アメリカン・ドリームの崩壊のあとの風景は、いまの日本の風景に似ている。90年代は「
失われた10年」といわれながら、まだ成長の余韻、バブルの余韻があった。しかし、良くも悪くも「改革」の熱気があった
小泉時代が終わった後の、安倍、福田の時代は何にもない。いまの静かに荒涼とした日本は、カーヴァーが描く小説の時代的ムードと合っているのかもしれない。ある種、救いのない絶望と空虚さとハッピーエンドが信じられない時代。声高に語る時代ではなく、静かな声を聴く時代。果てしない日常の繰り返しと、希望の喪失。話すことにも疲れてしまっているのかもしれない。でも、どこかに希望の灯が見える瞬間がある。
スコット・フィッツジェラルドにも似たところがある。今頃になって、なぜ、
レイモンド・カーヴァーを
村上春樹が訳すのかがわかった。
【参考】
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ウィキペディアによると「
レイモンド・カーヴァー」は
wikipedia:レイモンド・カーヴァー