横尾忠則「横尾流現代美術」

 横尾忠則が自らの軌跡と現代美術を語る。先日、読んだアンディ・ウォーホルの話も出てくる。横尾自身、ウォーホルと交流があり、ファクトリーにも行ったことがあったという。デザインとアート、滝や暗夜行路(Y字路)と興味は尽きない。2002年の出版だから、東京都現代美術館で開いた「森羅万象」の直前に、半生をまとめたといった感じ。発言には、デザイナーとして出発したために、日本の美術界でなかなか正当に評価されなかった苛立ちみたいも見える。しかし、今はこういう。

 あの頃はどう評価されるかということが気になっていて、自由じゃなかったんです。そんな俗世間のことに気がいってしまって。今もこの話の中で、僕は当時を思い出してぼやきましたけどね。でもそんなことではちゃんとした絵を描けるはずはない、というのが今の考え方です。現在はそういう不満はないです。自分のやることが見えていますからね。見えていない時は、他人や美術界に不満だらけ。今は、僕がやろうとしている現代美術の方向が違うことにはっきり気づいているために、これまでの不満からは完全に自由になれたので、後は自由自在にやっていけるような実生活の実感を持てばいいと考えています。

 横尾忠則がいうように、美術界の「トレンド」や批評家や仲間内の「評判」を目的に描かれたものは確かに魂に響かない。自立は個性と独創になっていくのだろうな。だから、横尾忠則の美術展が開かれると、いつも足を運んでしまうのかも。このほか、気になった語録は・・・

 何でも作品を巨大化させる最近のアーティストに対して意見があるんですが、自分の経済範囲を超えたようなことをする必要はないと思うね。そりゃ企業から依頼される場合は別ですよ。こちから企業に対して、これこれの大きい作品を作るのでといって、経済的援助を求めるのはどうかと思うね。美術家の傲慢ですよ。たかがアーティストじゃないですか。アーティストはそんなにエライのか、といいたいね。自分の経済範囲で作れるものを作るのが自然でしょう。大きいキャンパスが変えきゃ、小さい絵だっていいんです。他人の経済的援助を受けるということは甘えだし、自立していない。だからこんな状況からはハングリーな作品というか、捨て身の強さを持った自立した作品など生まれるはずがない。美術家の意識の問題です。

 最後に「横尾忠則への一〇三の質問」という章があり、これが面白い。たとえば

 Y字路の先に何がありますか。
 運命ですね。死と生があります。楽な方を選ぶと、死が待っていると思いますよ。