I.ウォーラーステイン「史的システムとしての資本主義」

新版 史的システムとしての資本主義

新版 史的システムとしての資本主義

 この本はちょっと難しかった。第1章の「万物の商品化ーー資本の生涯」と第4章の「結論ーー進歩と移行について」はきちんと読んだが、2章の「資本蓄積の政治学ーー利益獲得競争」と3章の「真理はアヘンであるーー合理主義と合理化」は超飛ばし読みしてしまった。しかし、ウォーラーステインの本は刺激的。社会は進歩していくという進化論に対する疑問。資本主義の成果と言われるものは本当に成果か。で、興味深かったのは、こんなところ。

 自由主義者たちが進歩を確信したのは、驚くにはあたらない。進歩の観念こそは、封建制から資本主義への移行過程全体を正当化するものであった。それは、万物の商品化に反対する(封建)遺制を打倒する行為を正当化し、弊害を遙かに凌駕する利益があるという理由で、資本主義批判を一掃する役割を果たした。このような事情からすれば、自由主義者たちが進歩を信じたのはけだし当然であった。

 では、社会主義者たちはどうだったかというと

 むしろ、驚くべきことは、かれらのイデオロギー上の敵対者であったマルクス主義者たちがーー反自由主義的で、抑圧された労働者階級の代弁者であったはずなのにーー、少なくとも自由主義者たちに負けず劣らずの情熱をもって、進歩を信じたことである。この進歩への確信こそは、疑いもなく、かれらにとって重要な意味をもつイデオロギー上の目的にも役立ったのである。というのは、この確信によって、世界の社会主義運動こそは歴史の必然的な発展の方向をもって示すものだとして、その活動が正当化されたからである。そのうえ、このイデオロギーを提唱することは、ほかならぬブルジョワ自由主義者の思想をかれら自身を打倒するために逆用することになるわけで、この点もきわめて賢明な作戦のようにも思えた。

 でも、この「進歩」思想はマルクス主義にとっての問題にもなった。

 進歩の観念はたしかに社会主義を正当化してくれたのだが、それはまた同時に資本主義も正当化した。つまり、まずブルジョワジーをもちあげてからでなければ、プロレタリアートに讃歌を捧げることができなかったのである。(中略)それに進歩史観における進歩の尺度は物質主義的なものであったからーーマルクス主義者であれば、この点に異を唱えることはできなかったはずであるーー、進歩の観念は裏返しにされて、「すべての社会主義的実験」に反対される根拠となる可能性があったし、じじつ過去五〇年間にわたってそうされてきたのである。生活水準がアメリカに及ばないという理由でソ連を批判することは、むしろ常套手段化している。

 なるほどなあ。ウォーラーステインは大体、「進歩」というのをどう測るのかという。技術的な知識は累積していくのかもしれない。しかし、失われていった知識や知恵もあるのではないかという。過去の手法のほうが自然にとって良いと言うこともある。「進歩」に対する固定観念を見直すことも必要なのかも。
 ウォーラーステインは、マルクスが唱えた「プロレタリアートの絶対的窮乏化」論を養護する。資本主義の勝利の時代に、えっと思うが、こういう。

 (生活水準の向上は)工業労働者については、たしかにそうも言えるだろう。しかし、工業に従事する労働者などというものは、いまでも世界の人口のなかでいえば少数派でしかない。世界の労働人口の大多数は農村地区に住んでいるか、農村と都市のスラムのあいだを往ったり来たりしている人びとで、かれらの生活は五〇〇年前の祖先たちのそれに比べて悪化しているのである。

 う〜ん。確かに。BRICsといっても、都市と地方の格差はあるし、南米、中央アジア、中東、アフリカをみれば、確かに、労働はきつくなっているかも。常識への挑戦では、こんな記述もある。

 史的システムとしての資本主義が、進歩的なブルジョワジーが反動的な貴族を打倒した結果として勃興してきたというイメージが間違いである(中略)。そうではなくて、史的システムとしての資本主義は、古いシステムが崩壊したために自らブルジョワジーに変身していった地主貴族によって生み出された、というのが基本的に正しいイメージなのである。かれらは古いシステムを崩れるにまかせて、どこへ行きつくかわからないままにしておくよりも、思い切った構造上の大手術を試みて、直接生産者を搾取する能力を維持する方法、というより、それをますます強化する方法をとったのである。

 こういう見方もあるんだ。で、最後に社会主義国も資本主義に取り込まれていくと・・・

 もっとも重要な事実は、世界の社会主義運動はーーすべての革命的かつ(ないし)社会主義的国家もそうだがーーほかならむ史的システムとしての資本主義が生み出したものだということである。それらは、現在の史的システムにとって外圧的なものではなく、その内部の過程から生み出された排泄物だったのである。したがって、そこには、このシステムのもつ矛盾や束縛がそのまま反映されてもいる。これまでのところ、そこから逃れることはできなかったのだし、今後もできないのである。
 これらの運動や国家がもっている欠陥や限界、ネガティブな影響などは、史的システムとしての資本主義のバランス・シートの一部なのであって、いまだに存在もしていない仮説上の史的システム、つまり社会主義的世界秩序の属性ではない。革命的および(ないし)社会主義的な国家において労働の搾取が強化されていること、政治的自由が否定されていること、性差別や人種差別が根強く残っていることなどは、いずれも新たに社会主義的なシステムに固有の属性ではない。むしろそれらの現象は、こういう国々が資本主義的「世界経済」の辺境ないし半辺境地域に位置し続けているという事実との関係で捉えなければならない問題なのである。

 ウォーラーステインがこの本を書いたのは1983年で、その頃と違って、社会主義共産主義を名乗る国はごくごく少数になってしまったが、中国などを見ていると、この指摘は当たっているような・・・。で、資本主義については

 史的システムとしての資本主義がまさにその発展の極に近づいているいまこそ、本当の危険が生じているのだ。万物の商品化がいっそう進み、世界中の反システム運動の力が弱まり、合理主義的なものの考え方が拡がり続けているいまこそ、危機なのである。これまでのところ、その論理が部分的にしか貫徹していないがゆえに繁栄してきたのであり、それがほぼ完全に開花しきることは、システムの崩壊を早める結果になる。

 これは1983年よりも、金融危機の混沌の中にある2008年のいまこそ当たっている感じがする。1983年から資本主義はさらに発展し、まさに、その極に来た。で、ウォーラーステインは「本当の社会主義」に未来を見ている。

 共産主義ユートピアであり、どこにも実在しない。これはメシアの到来、キリストの再生、涅槃入りなど、あらゆる宗教の終末論の化身である。それは歴史的な予測などではなくて、現代の神話なのである。これに対して社会主義は、いつの日にかこの世界に実現するかもしれない史的システムのことである。ユートピアへの移行の「一時的」な段階であると自称する「社会主義」なるものには興味がもてない。われわれが関心をもつのは、歴史具体的なシステムとしての社会主義だけである。このような意味での社会主義は、少なくとも次のような特徴をもった史的システムでなければならないだろう。すなわちそれは、平等や公正の度合いを最大限に高め、また人間自身による人間生活の管理能力を高め(すなわち民主主義をすすめ)、創造力を解放するような史的システムでなけれならないであろう。

 21世紀の今も、ウォーラーステインは「史的システムとしての社会主義」を信じているのだろうか。いまこそ、その意義が高まっていると確信しているだろうか。