ティム・オブライエン「ニュークリア・エイジ」

ニュークリア・エイジ (文春文庫)

ニュークリア・エイジ (文春文庫)

 「カチアートを追跡して」と「本当の戦争の話をしよう」の間に書かれたティム・オブライエンの長編小説。村上春樹の翻訳。核兵器(ニュークリア)の時代に生まれ、育った人間たちの魂の記録ともいうべき小説。今回はベトナムの戦場が描かれるわけではないが、米国の60年代、70年代を語るということはベトナム戦争を語ることになる。パラノイア的な一人称小説であり、面白くも哀しく、荒唐無稽にして描かれる魂は繊細。訳者の村上春樹はジョン・アービングの「オウエンのために祈りを」と比較して、こんなことを書いている。

前者(オウエン)を形態的に非のうちどころのない小説と呼ぶなら、後者(ニュークリア)は形態的に非のうちどころに満ちた小説である。前者がいくつかの文学的ポイントの絡み合いを明確に意識的に設定した小説であるのに対して、後者においては文学的ポイントは茫然とした荒野に放り出されてしまうのだ。そして彼らは北も南もわからないその<トゥット(全部)>という名の荒野で、自分の力でサヴァイブしていかなくてはならないのだ。この小説の魅力は実にその荒々しいサヴァイヴぶりにあるし、そしておそらくそこにこそ、この作品のとんでもない説得力がひそんでいそうな気がする。

 荒々しいサヴァイヴぶりはオブライエンの真摯から生まれてくるのかもしれない。自分や同世代の友人たちが生きた時代をそのまま書き残そうという真摯な思い、情熱から。で、根底には「本当の戦争の話」でも書いていたように、本当のことは本当の話で語られるのか、つくり話(物語)のほうが本当のことを伝えられるのではないか、というオブライエンの信念に行きつく。それが荒々しいサヴァイヴのエネルギーの源泉ではないか。オブライエンはワシントンポストで働いていたこともあるから、この50年代から90年代に至る米国史をドキュメンタリーとして書くこともできたのだろうが、その時代の「本当の人間」と「本当の空気」を描くには、「ニュークリア・エイジ」しかなかったのだろうな。
 そういえば、村上春樹エルサレム賞の受賞スピーチで「小説家はウソつきの職人」であるという話をしていた。政治家も、軍人も、商人も、(職業的に)嘘つきだけど、同じ嘘つきでも小説家だけは世間に賞賛される(賞も受ける)。それはなぜなのか、と言って、こんな話をしている。

Namely, that by telling skillful lies - which is to say, by making up fictions that appear to be true - the novelist can bring a truth out to a new location and shine a new light on it. In most cases, it is virtually impossible to grasp a truth in its original form and depict it accurately. This is why we try to grab its tail by luring the truth from its hiding place, transferring it to a fictional location, and replacing it with a fictional form. In order to accomplish this, however, we first have to clarify where the truth lies within us. This is an important qualification for making up good lies.

 良きウソは、うまく組み立てられた虚構は、(本当の話よりも)真実を伝える。村上春樹がオブライエンの作品を好んで訳すのも同じところにあるんだろうな。この「ニュークリア・エイジ」も、そんな一作だった。50年代、60年代、70年代の米国が皮膚感覚で迫ってくる。その時代に生きた人間の心も。
 で、「ニュークリア・エイジ」から最後に印象に残った一節(本編とはあまり関係がないのだけど)。

 僕はひとつ説をもっている。それは、人が歳をとり、月日が積み重ねられるにつれて、時間は奇妙なドップラー効果を帯びるようになる。つまり人間の関わる出来事と、その知覚のあいだの相対的な速度の変化のことだ。周波数が縮まってくる。波長が短くなってくる。音と光と歴史ーーそれがすべて圧縮されるようになるのだ。十二の歳には、ピンポン台の下にもぐりこんでいるとき、一時間という時間は無限に近いほど感じられる。それは濃密で緩慢である。でも二十五になり、三十五になり、四十になり、人生が盛りを越えるようになると、残った時間の分割も、ちょうどゼノンの矢の譬えのようにどんどん分数的に細かくなる。そして世界が人に向かって押し寄せてきて、そして背後に飛び去っていく。どんどんその速度を増しながら。それは計算を混乱させてしまう。人は人生を生きれば生きるほど、人生を失っていくのだ。幾何級数的に。