クリス・アンダーソン「フリー」

フリー 〈無料〉からお金を生みだす新戦略

フリー 〈無料〉からお金を生みだす新戦略

 ロングテール理論で有名なクリス・アンダーソンの話題の新作。今度はプレミアムならぬ「フリーミアム」という概念を提示している。この概念を中心に考えると、インターネット経済を理解する手助けになる。確かに、インターネットで急成長した企業の経営にあてはまる。日本で言えば、グリーなども、その良い例だろうし。ともあれ、いま氾濫しているフリーサービスをどう理解するか、それをどのように経営・経済に位置づけるかを考える上で、最良の本。フリーでは特にメディアが衝撃を受けているが、これも情報の潤沢さと希少性を考えていくと、整理がつきやすい。20世紀は新聞・出版・放送などすべてのメディアは「情報の希少性」の中で高収益をあげてきたわけで、一般的な情報はすでに潤沢にあるわけで、そこで今までのような利益をあげることは不可能。売り上げをあげることすら、困難になる。もう一度、情報の希少性というものを本質から考えていかなければならないんだろう。
 で、印象に残ったところを抜き書きすると。

 クロポトキンは1902年の著作『相互扶助論』の中で、ある意味では、今日のインターネットという(リンク経済)(略)を支配するいくつかの社会的な力を予想していた。人に何かをあげることは、お金のためではなく自己満足のためだと彼は言ったのだ。その満足はコミュニティや相互扶助や支援に根ざしている。すすんで他人を助けることで、相手も同様にふるまうようになる。「原始社会」はそのように動いていたとクロポトキンは主張した。贈与経済は市場経済よりも、人間の自然の状態に近いのだと。

 クロポトキンかあ。高校か大学の時に、すこしかじったなあ。19世紀のアナーキスト。昔、読んだときは、あまりに理想主義的な感じがしたが、確かにインターネットのような潤沢の時代には、そのユートピア的思想によって解説されてしまうところが出てくるんだな。
 で、インターネット・ビジネスに戻って、小口課金の可能性について。ワシントン大学で経済学を教えるニック・サボは「心理的取引コスト」の理論を購買決定行動にまで拡大して

 彼は<マイクロペイメント>というアイデアについて研究した。たとえば、ウェブページの閲覧を1ドルにしたり、連載マンガのダウンロードを数分の1ユーロにするといった少額の支払いを可能にすることで、ビジネスを成立させようとする決済システムだ。そしてサボは、そのようなビジネスモデルはすべて失敗する運命にあると結論づけた。なぜなら、選択肢の経済コストをいくら最小にしても、認知作業のコストは残るからだ。

 確かに「考える」過程が入るごとに、障壁は増えていく。で、フリーとのビジネス競争について、クリフ・ハリスというゲーム開発者の意見。

 ハリスの経験から得られる教訓は、デジタル市場ではフリーはほとんどの場合で選択肢として存在することだ。企業がそうしなくても、誰かが無料にする方法を見つける。複製をつくる限界コストがゼロに近いとき、フリーをじゃまする障壁はほとんど心理的なものになる。つまり、法律を犯すことの恐れ、公平感、自分の時間に対する価値観、お金を払う習慣の有無、無料版を軽視する傾向の有無などだ。デジタル世界の制作者のほとんどは、遅かれ早かれフリーと競いあうことになるだろう。ハリスはそれを理解して、どうすればいいかを考えた。彼はみずからの調査によって、違法コピーする者の心の中をのぞき込み、人々がお金を支払うべき理由を求めていることを知ったのだ。

 で、スティーブン・レヴィによる「ハッカー倫理」7カ条。

1.コンピュータへのアクセス及びその使い方を教えるあらゆるものは、無制限かつ全面的でなければならない。
2.常に実践的な命令に従うこと。
3.すべての情報はフリーになるべきだ。
4.権威を信じるなーー非中央集権を進めよう。
5.ハッカーはその身分や年齢、人種、地位などインチキな基準ではなく、そのハッキング能力によって評価されるべきだ。
6.コンピュータで芸術や美をつくり出すことは可能だ。
7.コンピュータはわれわれの生活をよいほうに変えられる。

 インターネットのフリー思想の源流みたいな感じだな。これについて「ホール・アース・カタログ」という雑誌のスチュアート・ブランドの3条に関する補足。

 一方で、情報は高価になりたがる。なぜなら貴重だからだ。正しいところに正しい情報があれば、私たちの人生さえ変わりうるのだ。他方で、情報はフリーになりたがる。なぜなら情報を引き出すコストは下がりつづけているからだ。今はこのふたつの流れがせめぎ合っているのだ。

 これまた、わかりやすい。メディアは「価値ある情報」は高価という。それは一般論として正しいのだが、メディアが提示する価格の中には「情報を提供する(ユーザーから見れば引き出す)コスト」も入っている。これまたせめぎ合い。それに、どの情報が本当に価値があるのか、どれが正しい情報なのか、といった問題が絡んでくる。ブランドのあるメディアの情報は「正しい情報」である確率が高いというのが一般的。ブランドは、信用の歴史の積み重ねみたいなものだから。でも、一方で、壊れるのも早い。で、このあたりについて、著者の解説として

 コモディティ化した情報(誰もが同じものを得られる)は無料になりたがる。カスタマイズされた情報(その人にだけ与えられる特別なもの)は高価になりたがる。

 潤沢な情報は無料になりたがる。稀少な情報は高価になりたがる。

 当たり前の話のようだけど、新聞、雑誌、テレビなどを具体的に当てはめて考えていくと・・・。既存のメディアは大変だなあ。専門メディアは生き残る手はいろいろとありそうだけど。
 フリーは、既存産業を破壊する。クレイグスリストは新聞産業のクラシファイド広告ビジネスを破壊し、ウィキペディアがブリタニカに取って代わる。大きな売り上げが小さな売り上げに変わる。

 これがフリーの成すことだ。十億ドル産業を百万ドル産業に変えてしまう。だが、見た目どおりに富が消滅するわけではなく、富は計測しにくい形で再分配されるのだ。クラシファイド広告のケースでは、新聞社の経営者、従業員、株主が多くを失うあいだに、残りの私たちはわずかながら得るものがあった。得たものの量は失ったものの量よりもはるかに多い。そして、新聞社の株価から失われた三〇〇億ドルの資金は、やがてそれ以上の金額となってGDPを押しあげるのだ。だが、そのつながりをはっきりと見ることはできない。

 そうだなあ。一方、コンテンツの価格破壊についての分析。芸能関係の弁護士にして、元コンピューター・サイエンティストのジョナサン・ハンデルの、コンテンツがフリーへと移行する6つの理由。

1.供給と需要(コンテンツの供給は増えたが、需要は増えていない)
2.物質的形状の消滅
3.入手しやすさ
4.広告収入で運営するコンテンツへの移行
5.コンピュータ業界はコンテンツを無料にしたがっている
6.フリー世代(ブロードバンドとともに成長した新世代の台頭)

 これもよく整理されているなあ。フリーと有料の区別に関するクリス・アンダーソンの考察。

 価格理論は、顧客が違えば価格も違うという「バージョン化」にもどづいている。夕方にサービスタイムとしてビールを安く提供するのは、客の何割かがそのまま店に残って高いビールを飲んでくれることを期待しているのだ。
 バージョン化の基本には、似たような製品を異なる顧客に売るという考えがある。私たちは、ガソリンをレギュラーとハイオクのどちらかに決めるときにバージョン化を経験しているし、映画を昼の安い価格の時間帯に見るときや高齢者割引を利用するときにもそうだ。これがフリーミアムの核心だ。あるバージョンは無料で、別のバージョンは有料になる。つまりマルクス主義の言葉を借りれば、消費者がお金を払うのが「支払能力に応じて」から「必要に応じて」になったのだ。

 なるほど。で、メディアについて

 私が働いている従来型のメディアにおいては、文章を書けば原稿料がもらえる。最低水準が一語一ドルで、売れっ子になると1語三ドル以上となる。私がこの文章を高級誌のために書いているとすれば(略)、この一文だけで数十ドルになる。だが、状況は変わった。直近の調査では、コンスタントに更新されているブログは一二〇〇万もあり、そこでは個人やグループが少なくとも一週間に一回は書きこみをし、数十億語を生みだしている。その中で、報酬をもらっている書き手は数千人しかいない。
(中略)
 これは何も新しいことではない。人々はいつでも何かをつくり、無償で与えてきた。それを「仕事」と呼ばなかったのは報酬をもらわなかったからだが、私たちが他人に無償で助言したり何かをしてあげたりするその行為の一つひとつは、違う状況では誰かが仕事にしているかもしれないことなのだ。突然にプロとアマチュアが同じ注目という市場に立つことになり、両者の世界が競いあうことになった。そして、数ではアマチュアが断然、勝っている。

 では、無償で提供する動機は何か。

 二〇〇七年に、オライリー・メディアの編集者のアンディ・オラムは、ユーザーがつくった驚くほど多くのマニュアルに注目した。ソフトウェアやハードウェア、ゲームなどについて、正規のものよりもはるかにくわしいマニュアルだ。それをつくろうとした動機に興味を持ったオラムは、一年かけて調査し、その結果を発表した。もっとも多い理由は「コミュニティ」だった。コミュニティの一員であることを感じ、その繁栄に貢献したいと思うのだ。二番目に多い理由は「個人の成長」だった。マズローの欲求段階では最上階にある自己表現に当たる。三番目は「助けあい」で、そう答えた人の多くは、社会学者が「熟練者」と呼ぶ、自己の知識を喜んで分け与える人だろう。

 で、フリーといっても、「この世にタダのものはない」ではないか、ということについて

 まず経済面での答えはイエスだ。最終的に、すべてのコストは支払われる必要がある。ただそこには変化が起きている。それらのコストが「隠されたもの」(ランチのときに、ビールを頼まなければならないといった小さなこと)から、「分散されたもの」(誰かが払うが、たぶん皆さんではない。コストはとてもこまかく分散されているので、個人はまったく気づかない)に変わりつつあるのだ。

 なるほど。で、最後にフリー時代のジャーナリストについて

 フリーはプロとアマを同じ土俵にあげる。より多くの人が金銭以外の理由でコンテンツをつくるようになれば、それを職業としている人との競争が高まる(略)。それらすべては、出版事業にたずさわることがもはやプロだけの特権ではないことを意味する。けっして、出版によってお金が稼げなくなることを意味してはいない。
 プロのジャーナリストが自分たちの仕事がなくなっていくのを見るはめになるのは、彼らの雇い主が、潤沢な情報の世界で彼らに新しい役割を見つけることができないからだ。全般的に、新聞はそうだと言える。おそらく新聞は音楽レーベルと同じように劇的に再構築されなければならない業界だ。『ニューヨーク・タイムズ』や『ウォールストリート・ジャーナル』などの一流紙は少し規模が小さくなり、その下の各紙は激減するだろう。
 だが、血の粛清のあとには、プロのジャーナリストに新しい役割が待っているはずだ。参加資格が必要だった伝統的メディアの範囲を超えてジャーナリズムの世界で活躍できるプロは、減るどころかますます増えるだろう。それでも報酬はかなり減るので、専業ではなくなるかもしれない。職業としてのジャーナリズムが、副業としてのジャーナリズムと共存するようになるのだ。

 予言の書みたいだなあ。ジャーナリストはプロはアマを指導することで報酬を得るなどという話が続く。米国の調査報道ジャーナリストには、NPOで調査報道を続ける一方、大学のジャーナリズム・スクールで教えている人もいるから、このあたり、次代のジャーナリズムのモデルなんだろうか。
 ともあれ、インターネット社会・経済・経営の今後を考える上で、いくつもの示唆に富んだ本でした。