大塚英志+東浩紀『リアルのゆくえ』

 大塚英志東浩紀という論客ふたりのロング対談。副題に「おたく/オタクはどう生きるか」とあるが、内容としては、インターネットの時代に知識人はどう生きるか、言論の責任と公共性がメーンテーマで、かなり刺激的だった。
 目次で内容を見ると...

 はじめにーー世代間闘争について
第1章 2001年ーー消費の変容
第2章 2002年ーー言論の変容
第3章 2007年ーーおたく/オタクは公的になれるか
終 章 2008年ーー秋葉原事件のあとで
 あとがき 東浩紀

 目次に表記された各年に対談が行わているが、白眉は第3章。大塚が東を挑発しまくる。まるでケンカ対談のようになっていくのだが、それがかえってインターネットが定着したあとの言論状況の混迷を浮き彫りにしていく感じだった。読み始める前は、大塚のほうに身近な印象を持っていたのだが、第3章の激論に至り、東の意見に共感する。大塚英志は、団塊世代批判を展開して出てきた人だが、読んでいると、団塊世代的な熱さを感じる。本人は怒るかもしれないが、メンタリティは、ポスト団塊世代というより、団塊世代に近い印象を持つ。その苛立ち方も含め。
 あとがきは当初、大塚、東ふたりがそろって書く予定だったというが、印刷2日前に大塚の申し入れによって削除されたという。何か苛立っているのだ。
 で、印象に残った発言をいくつか。まず...

 大塚 (略)10年前『東京ウォーカー』を作るにあたって、角川の現社長が、もう『ぴあ』なんて要らない、読者は情報を選べなくなってくるから、最初から選んでやっている情報誌を作れと言ったんだけど、まあ、そのとおりになっちゃてる。

  2001年の対談の時の発言。現代の読者に主体性はあるのか、ないのか。大塚氏は、それでも、どこかで主体性を信じる世代という。
 次にコンテンツづくりで...

 大塚 ぼくはかつてはまんがファンであり、映画青年であったわけだけれども、この業界に入って物を作るときに一つだけ決めたことがある。それは「自分の好きなことだけはやらないようにしよう」と。そうしなければ、この世界では生きていけないだろうというのが、ぼくが決めたルールだったわけ。要するに、自分のマニアックな心情であるとか、好き嫌いを仕事に持ち込んでしまえば、仕事がして行けなくなってしまうだろうと思っていたからなんだよね。何よりも商品を作らなければいけないというところで、強く自己規定した。

 わかるなあ。
 で、第3章から、ここはインタネット論、社会論、世代論に関する「気になる発言」が多い。まず...

  ぼくは赤木さん的なルサンチマン*1は、たんにネットでよくみられるというだけではなく、本質的にネットによって増幅された現象だと思うんです。インターネットは、いままで発言する機会がなかった人たちにも大量に発言する機会を与えた。また、いままでみえなかった小さな格差や差異を大量にみえるようにした。そのことによっていいことも起こるけど、悪いこともやっぱりたくさん起きるんですね。その一つの結果が、小さな実感に基づいたルサンチマンのネットワークだと思います。

 当たっている。

  情報量がある程度以上大きくなってしまうと、人間にはその全体を見渡すことができなくなる。その結果、誰の言っていることがより優越しているのかというメタレベルでの競争でしかできなくなる。ぼくの言葉でいえば、コンテンツの消費よりコミュニケーションの消費のほうが優位になる。

 なるほど。これに近い言葉として、<昔、大塚さんが僕に対して言いましたけど、情報量が大きくなると、「誰が頭がいいか競争」しかできなくなってしまう>という東氏の発言もあとから出てくる。いずれもわかる。

  ぼくも含めた団塊ジュニア世代、あるいはそれ以下の論客やブロガーに対してよく言われることに、みんな議論が小さくて、おまけに斜に構えてメタゲームばかりやっているようにみえるけどどうか、という非難があります。(中略)しかし、ぼくの思うに、そんなのはたいして理由があることでもなくて、みんなネットとかで叩かれるのが面倒くさいんですよ。たんにそれだけだと思う。ぼくもそうだし、どんなことを言ったって、必ず反論はあるんだからそりゃ疲れますよ。

 これなどもなるほど。そして、ネットと論壇について...

  問題は、権威というか、固有名が出ている人間が少数で何かを選ぶことへの不信感がすごく強まった、ということです。その不信感自体は正しいんだけど、結果として出てきたのが、名前がない多数が空気を読み合って決めるという、もっとわけのわからない状況。その状況が拡散したきっかけの一つがネットかもしれないけど、それはネットに限らないですね。

 的確な社会批評。政治の世界も同じかも。決定の主体が見えなくなってきている。こうしたシステムのなかで、意思決定者が自分で決定した意識を持っていないことも。

  知識人というのは、基本的に先端的な情報発信者です。しかし、すべての人が情報発信者になれる現在の環境においては、発信者であるだけでは意味がない。あとは知識の多寡や深さってことなんだけど、総合的な世界像なんてむかしからフィクションであって、要は専門的な知識の有無が問題になってくる。そうすると、どんな分野でも大量の専門家はいるわけだし、アマチュアにしか分からないこともたくさんあるから、かつての知識人と呼ばれていた人の役割は、情報発信の機能を出版が独占していた状況でしか成立しない虚構だったということになる。

 辛辣だが、的確。大塚氏に惹かれて読み始め、最後は東氏の著書を読んでみたくなった。ネットメディアに関心がある人は、第3章が必読で、ここだけでも読んでみる価値がある。メディアとしてのインターネットに関する考えを整理するのに役立つ。

*1:赤木智弘「『丸山眞男』をひっぱたきたい」『若者を見殺しにする国』など