マイケル・ルイス『マネー・カルチャー』
- 作者: マイケルルイス,Michael Lewis,東江一紀
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1992/08/01
- メディア: 単行本
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目次で内容を見ると、以下のとおり。
第1部 新世界
ウォール街のクリスマス/出かけるときは持たないでーーアメリカン・エキスプレス・カードの非常識/ぶつ切り屋エディー/イェールの使命/ハーバードの似た者集団/フランキーのいちばん長い一マイル/LBOは[L]らくらく[B]ぼろい[O]大もうけ/リフト待ちの割り込みお断り/谷間の野蛮人/消えた従業員の謎/ウォール街代表、ワシントンへ行く/ウォール街風カモ料理/金持ちに災いが降りかかったら/ガラスの城の住人トランプ/ミルケンのモラル、ぼくらのモラル/刻苦勉励はカネにならない?/アマゾンで投資テクニックを学ぼう
第2部 旧世界
体の芯に、熱い炎はありますか?/パリのゴールデン・ボーイたち/南半球のアメリカ合衆国/ハロッズ魚売場の天啓/イギリスよ、アメリカの歴史に学べ/手軽でおいしいヨーロッパのたたき
第3部 別世界
東京の地震、ウォール街を揺るがす/黒船に乗ったニューヨークの投資銀行家/日本人の分け前/ピケンズの舌なめずり/カミカゼ資本主義/ルノアールをキャッシュで/ウォール街のヤンキー、天皇に会う
三部構成になっているが、新世界は米国、旧世界は欧州、別世界は東京。80年代の暴走する金融界を活写しているが、これは21世紀の金融危機へとつながっていく。別世界の冒頭は、東京が大地震に襲われたら、というシミュレーションなのだが、東京は地震こそなかったものの、バブル崩壊の激震に、かつてほどの勢いはない。今だったら、別世界は、上海、シンガポール、香港、ボンベイ、東京という群像劇として描かれるのだろうか。
米国のコラムニストは、ボブ・グリーンにしても、ロジャー・サイモンにしても、市井の小さな出来事から筆を起こし、最後に政治,経済,社会について考えさせる。テーマによって、ユーモア、悲哀、怒りなど様々な色に彩られる。マイケル・ルイスも金融界の街ネタから経済・政治・社会を語ることができる稀有なコラムニストといえる。
で、印象に残ったところをいくつか抜書きすると、まず、最近,大統領選に出馬するような発言をして話題になっているドナルド・トランプについて...
トランプが飽くことなく蓄財に励んできたのは、もっぱら貪欲さのせいだと誤って受け取られることが多いが、原動力としてそれより大きいのは、病的なまでの支配欲だろう。では、何を支配したいのか? かつては自分の事業を掌握したいと考えたこともあったはずだが、今はどうやら、自分に関する世論を統制することしか頭にないようだ。名声を高くすれば、事業もおのずとうまくいくと思い至ったらしい。<成功とは、往々にして、単なる知名度の問題でしかない>と書いている。だから、ジャーナリストに自分のイメージをいじくり回されると逆上するのかもしれないが、同時に、それはまた、商売に対する風変わりで(今から見ると)筋ちがいなアプローチのしかたとしても表れる。ビルを買い取ると、何より先に外装を替えたがるこの人物は、自分自身もただの“外装”に成り下がってしまった。そして、この著者は、そういう不自然な、その場しのぎの修復作業の一環なのだ。
これなどトランプという人間の本質をうまく捉えている。この延長線上にテレビのリアリティ番組「アプレンティス」への出演があったのだと考えると、わかりやすい。大統領選にしても同様。
一方,前にも書いたが、ジャンクボンドによって金融革命を起こしながら、インサイダー取引などで逮捕されたマイケル・ミルケンについて...
ミルケン事件での教訓は、貪欲な人間は必ずその報いを受けるということではない。そんな因果律がうそっぱちであることは、鏡を見ればわかるだろう。ほんとうの教訓は、本人が望まない変化を人に(特に、権力を持った人に)強いるときには、弁護士を手近に置いておけということだ。ミルケン氏は、正真正銘の天才金融家がどれほどの破壊力を秘めているかという実例を示してくれた。まあ、少し間が抜けているくらいの銀行家を選ぶのが無難なのかもしれない。
エスタブリッシュメントに挑戦した革命家が、エスタブリッシュメントによって叩かれるというのは、洋の東西を問わないのだ。信用度の低い債券(ジャンクボンド)市場の活性化は、ベンチャー企業の資金調達に道を開いた面があり、シリコンバレーにはいまだにミルケン信仰者が多いという話もある。ルイスも金融革命家としてのミルケンに惹かれているところがあるのだな。これは『ライアーズ・ポーカー』でも同じだった。
で、証券市場を監視する人たちについて...
彼らがSIB(英証券投資委員会)に推挙されるのは、実務家としてあまり役に立たないという理由によるものだ。これはぼくひとりの意見ではない。ぼくが話を聞いた何十人もの消息通が、口をそろえてそう言っていた。シティーの二流の実務家から一流のやっかり者に転身したひと握りの人々は、元の同僚たちから、1.75倍どころか、それをはるかに上回る侮蔑を浴びせられている。SIBとその監督下の業者との関係を円滑にするためにとられた措置が、皮肉なことに裏目に出てしまったわけだ。イギリスの規制者と被規制者の関係にも、アメリカのSEC対ウォール街の関係に見られるような不健全なさげすみ合いの構図が、これからも表れてくるかもしれない。
身も蓋もない話。しかし、これが投資銀行の住人たちの一般的な感情なのかも。『世紀の空売り』のなかでも、投資銀行の人間が格付会社の人たちを下に見ていたという話が出てくる。
『マネー・カルチャー』が書かれた80年代から90年代初頭の日本はバブルの全盛期だった(90年に崩壊が始まる)。小糸製作所株買い占め事件に登場したブーン・ピケンズについてはテキサス州知事の座への野心が動機ではないかと推測している。自動車メーカーを叩き、株式市場の閉鎖性を攻撃し、日本市場開放の騎士となることで米国内の人気を得ようとしたのではないかというのだ。それもあるかも。
一方,日本の銀行については、横並びの不思議な人々という感じで、当時、始まっていた金融工学の外にいる人たちというような書き方。で、こんなことも書いている。
ことを少し単純化してみよう。不動産や株やその他の資産が急騰していく一方で、その収益は減少していき、すると、高くなるばかりの銀行金利を支払うカネがどこから来るかという問題が生じる。しかし、日本の銀行は、低い利回りと高い金利を両立させるみごとな適応の才を発揮してきた。例えば、最近,住宅百年ローンを開発し、孫世代の将来まで抵当に入れるという新しいローンの観念を創り出した。三世代にまたがって利息を支払うことで、すでに高すぎる家に住んでいる家族が、さらに背伸びすることが可能になり、結果的に不動産価格を押し上げるわけだ。
こうした日本経済の仕組みを「国家規模のポンジー」と呼んでいる。「ポンジー」、一種のねずみ講だと。まあ、実際、この結末はバブルの崩壊と銀行が抱え込んだ巨額の不良債権だった。「永遠の成長」などというのは詐欺以外には存在しなかったということなのだろう。狂乱の中では、それが見えなくなってしまうのだが、ルイスはどこか醒めている。だから、投資銀行家ではなく、作家を選んだのかもしれない。