ヴィクトル・ザスラフスキー『カチンの森』

カチンの森――ポーランド指導階級の抹殺

カチンの森――ポーランド指導階級の抹殺

 第二次大戦中、ソ連ポーランドで犯した大量虐殺事件の記録。その犯罪自体もおぞましいが、さらに恐ろしいのはソ連が、この事実を歴史から抹殺しようとし、米英を中心とした西側諸国もその隠蔽に力を貸したこと。国際政治から見れば、ポーランドの問題でソ連と事を荒立てるなど意味がないという現実政治の判断が真相を闇に葬ろうとする動きを手助けした。実態が明らかになるまでには、ソ連が崩壊するのを待たなければならなかった。既に処刑された人々の書類は、ソ連政府が証拠隠滅のために破棄しており、どのような形で処刑されていったのか、その具体的な内容はこの本にもない。歴史を改竄しようとする国家の恐ろしさと小国の悲哀を感じる。
 本書の序論によると、カチンの虐殺とは...

 1940年4月と5月に、2万5000人以上のポーランド市民が、ソ連内務人民委員部(NKVD、通称秘密警察)によって銃殺された。その大部分は陸軍将校だったが、他に知識人、大学教授、学校教師、実業家、幹部公務員、地主、警察官、国境警備員、神父たちがいた。犠牲者たちは、ソ連独ソ不可侵条約モロトフ=リッペントロプ協定)にもとづいてソ連に分割された東部ポーランドを占領したさいに、捕らわれた。この犯罪はカチンの虐殺と呼ばれている。

 独ソ不可侵条約というと、ドイツとソ連がお互いに攻撃しないという意味と考えてしまうが、むしろ、ヒトラースターリンという独裁者が東欧・北欧の国々をどう分配するかという内容だった。第二次世界大戦は、ドイツのポーランド侵攻によって始まるというのが歴史の教科書の記述だが、このとき、条約に基づいてソ連ポーランドに侵攻し、東部を占領する。ポーランドは挟み撃ちにあって崩壊したわけだ。そのうえ、条約にもとづき、ソ連は東部で逮捕した西部(ドイツ占領地域)在住の共産党員をドイツ側に引き渡すということまでやっている。共産党員はユダヤ人とともにナチの絶滅収容所に入れられることがわかっているのに、ソ連はドイツに引き渡している。しかも、共産党員、ユダヤ人ともにソ連に残留することを懇願しているのに却下した。
 ドイツのソ連侵攻によって、ソ連は連合国側に入ることになったが、大戦当初は、ヒトラーと手を組んで東欧・北欧を制覇する考えだった。リトアニアはこのときソ連に併合され、フィンランドも攻撃された。フィンランドは冬戦争で死闘を尽くした末、全土占領を免れるのだが、もしソ連フィンランドの全土を制圧していたら、カチンの森と同じことが起きていたのかもしれない。
 この本によると、ソ連は日独伊三国同盟に参加し、四カ国同盟すら考えてたという。結局、自国の権益拡大の欲望のまま動き、結果として最後は連合国側にいたといった感じ。最初から対ファシズムだったわけではない。
 で、目次で内容を詳細に見ると...

序論
I ポーランド分割とポーランド市民のソ連収容所拘禁
II 殺戮と追放
III 階級殺戮、すなわち階級浄化
IV カチンの虐殺 責任者たちを探して
V ソ連のつく嘘と西側によるその隠蔽
VI ソ連の公式見解に甘んじる政治家と歴史研究者
VII ゴルバチョフの沈黙
VIII カチン事件 歴史学と政治へのひとつの教訓

 この目次にあるように、筆者はこの事件を「民族浄化」ならぬ「階級浄化」という。ポーランドを完全に無力化するために指導階層を組織的に抹殺したというのだ。実際、捕虜や逮捕された人々は長時間尋問され、ソ連のいうことを聞く人間かどうか判断したらしい。そして、一握りの親ソ派を除き、ほとんどを裁判抜きで最高刑に処すべきと判断したという。個々人の書類は秘密警察が保管していたが、のちにあとで発見されると問題ということで破棄したが、処刑に至る決定や破棄に関する書類は厳重な管理のもとに保存された。それがソ連崩壊後、公開され、この本の資料にもなっているわけだが、記録を抹殺し、その記録もまた残しておく、このあたりが全体主義官僚主義の律儀さであり、怖さだなあ。
 さらに怖いのは真相解明を抹殺する行為。ニュールンベルグ裁判では、カチン事件をドイツの犯行として裁くことさえ計画した。この動きに反対したソ連の検察官は暗殺されたという。ソ連にも当然、良心のある人間もいたが、その人も抹殺されてしまった。結局、ニュールンベルグ裁判では証拠不十分で、ドイツに罪をなすりつける工作は失敗した。ただ、ドイツや日本の戦争犯罪は告発されても、ソ連の虐殺が問題になることはなかった。
 カチン事件はナチスドイツがソ連侵攻作戦後に大量の死体を発見し、中立国など第三国の専門家による調査団を組織し、ソ連の犯行との調査結果を出した過去がある。ただ、大量殺人の当事者のドイツの告発は戦時中ということもあって連合国はまともに取り上げなかった。これは戦時中にはやむを得なかったかもしれないのだが、問題は戦争が終わってからも真実に目を閉ざしたことだ。ソ連との外交上の配慮からか、西側はこの事件を黙殺しばたばかりか、真相解明のための調査の妨害までしたという。一方、ソ連は各国の共産党組織をつかって、調査に参加した法医学者の迫害を企む。人格的攻撃や、大学から追放しようとする動きが出たというから、恐ろしい。イタリア共産党などは法医学者を監視したり、ひどかったらしい。
 この本を読んでいて怖いのは、1940年に起きたポーランドでのソ連による「階級浄化」の話だけでなく(それだけでも十分怖いが)、それ以降の歴史の捏造、真実の解明に対する妨害、それもソ連だけでなく英米の共犯関係まで描き出していることだ。そこに全体主義、国家権力の本質が垣間見える。2008年の「ハンナ・アーレント政治思想賞」を受賞しているのもわかる。
 ヒトラーのドイツとスターリンソ連にどれだけの相違があったのだろうか。この本を読むと、ソ連軍がワルシャワ蜂起を見殺しにした理由がよくわかる。あれは補給問題で進軍ができなかったなどという軍事的な話ではなく、明確に政治的な意図をもった行動とみたほうが自然かもしれない。しかし、ポーランドというのは悲しい国だなあ。
カティンの森 [DVD]
アンジェイ・ワイダは「カティンの森」という映画を作った。ワイダの父親もカチンで殺されている。