鈴木智彦『ヤクザと原発ーー福島第一潜入記』

ヤクザと原発 福島第一潜入記

ヤクザと原発 福島第一潜入記

 副題に「福島第一潜入記」とあるように、暴力団を専門に取材してきたジャーナリストが震災・事故後の福島第一原発に作業員として入ったルポルタージュ。裏社会と表社会は秘め事があるところで交錯するのだが、不都合なことを隠蔽することによって “安定操業” を図ってきた原発もそのひとつなのだな。そして、この本を読むと、福島第一原発の状況というのは闇の中という感じがする。原発の稼働のためには、不都合なことを隠したいという心理が働いているように見える。でも、その隠蔽体質がかえって不信感を増幅させ、結果、ついに原発稼働ゼロという現状を招いている感じがする。
 で、目次で内容を見ると...

序 章 ヤクザの告白「原発はどでかいシノギ
第1章 私はなぜ原発作業員となったか
第2章 放射能VS.暴力団専門ライター
第3章 フクシマ50が明かす「3・11」の死闘
第4章 ついに潜入! 1Fという修羅場
第5章 原発稼業の懲りない面々
第6章 「ヤクザと原発」の落とし前

 原発ビジネスにヤクザが入っているというネタから、体験潜入取材へとなっていくのだが、ヤクザの話も原発の話も初めて知る話が多く、興味深い。暴力団といっても、都市型の組織暴力団と、地方の土着型ヤクザは大分、差があるように見える。土着型ヤクザは、土着型産業の最たるものである電力と共生関係ができてしまっているようにみえる。隠蔽、反対論抑圧の面では、ヤクザと原発電力企業は相思相愛の関係なのかもしれない。裏社会・表社会は同じコインの裏と表といった感じ。
 表面上綺麗な電力、プラントなどの上場企業とヤクザ、フロント企業の裏社会が共存する関係は、日本的な二重構造の象徴なのかも。原発事故修復の現場も二重構造の中にある感じがする。この本を読む限りでは、安全性の確保がどれだけなされているかも不透明なところがある。あと10年か、20年かしたときに、適切な対応が採られていたのか、それとも、そうでなかったかのがわかるのだろうなあ。いずれにせよ、この本で描かれた現場の様子では、事故対応が終わるまでには相当な年月がかかることになりそう。紆余曲折がありそうだなあ。
 で、印象に残ったところをひとつ。

 親方の忠告により、原発の根源が理解できた。原発が都市部から離れた田舎に建設されるのは、万が一の事故の際、被害を最小限にとどめるためだけではない。地縁・血縁でがっちりと結ばれた村社会なら、情報を隠蔽するのが容易である。建設場所は、村八分が効力を発揮する田舎でなければならないのだ。
 暴力団原発シノギに出来るのは、原発村が暴力団を含む地域共同体を丸呑みすることによって完成しているからだ。原発は村民同士が助け合い、かばい合い、見て見ぬふりという暗黙のルールによって矛盾を解消するシステムの上に成り立っている。不都合な事実を詰め込む社会の暗部が膨れあがるにつれ、昔からそこに巣くっていた暴力団は肥え太った。原発暴力団は共同体の暗部で共生している。

 ここにテーマが集約されている。で...

 加害者意識が入り交じった地元・作業員の心境は、程度の差はあっても、共犯者としての連帯感を増幅している。社会から爪弾きにされることで強力な団結力を生む暴力団社会とひどく似ている。

 暴力団のことを「反社会勢力」というけど、その反社会勢力を作り出すのは社会なのだな。鬼っ子かもしれないけど、暴力団もまた日本社会が生み出した社会なのだなあ、と読んでいると、思えてくる。暴力団が「反社会勢力」とすると、社会に対して情報を隠蔽しようとする電力もまた、「反社会勢力」なのだろうか、などとも考えてしまった。「ヤクザと原発」というタイトルはインパクトがあるが、内容もタイトルに負けないだけのインパクトを持っている。
 しかし、日本の原発問題、最大の問題はやはり不透明性だなあ。論議するにも、そのデータや状況説明自体が正しいのかさえ、信用できないところがある。この本を読むと、東電や政府をますます信用できなくなってくる。