渋谷陽一『ロックミュージック進化論』

ロックミュージック進化論 (新潮文庫)

ロックミュージック進化論 (新潮文庫)

 かなり古い本だが、思い立ってロックの歴史のお勉強。今となっては古典の教科書を読んでいる感じだが、この昔の名前の人々がいまだ残っているところは歴史の壁を越えたのかもしれない。ロックがクラシックになったのか。それもロックも初期のロックが残って、グラム・ロックとか、パンク・ロックのほうはそれほどの生命力を持たなかった感じがする。
 目次で内容を見ると...

ビートルズ(1)
まずその個人的追憶と怨念
ビートルズ(2)
60年代の欠落部分を反映するヒーロー
ビートルズ(3)
終わってしまった夢 ジョン・レノンについて
●ブルース・ロック
えいえいの恋人、黒人音楽を追い求める
スーパー・セッションという名の神話
サイケデリック・ミュージック
ウェスト・コーストの文化を変えた
●60年代のロック
死んでいったミュージッシャン
●ハードロック
その役割と見きわめなければならない限界
●グランド・ファンク
後楽園球場と新宿の夏
レッド・ツェッペリン
新しい科学としての音楽と黒魔術
プログレッシブ・ロック
否定性の彼方へ向かうもの
グラム・ロック
その虚構性とは
パンク・ロック
それはロックの終末宣告か

 これに渋谷陽一氏がホストとなった山川健一氏の対談「ポップス化の流れの中で」、ピーター・バラカン氏との対談「黒人音楽の流れに沿って」がつく。こちらは読み飛ばしてしまった。
 印象に残ったところを抜書きすると...

 ハードロックは一種のだだっ子のようなものであった。何に対してもイヤイヤをするばかりで、それ以上の意思表示をしない。何が欲しいとも、何がしたいとも言わず、ひたすらイヤイヤするだけである。展望がないと言えば、これほど展望のない発想もないだろう。ハードロックはある意味で、スタートの時点で敗北していたと言っていい。多少批評能力のある人なら、たとえハードロックを演ったとしてもそれに気づくはずだ。言ってしまえばいつまでもハードロックにへばりついているのは頭の悪いミュージシャンばかりという事になる。
 ハードロックの限界性を見きわめ、それを止揚するところからしか新しい表現は生まれない。それを自覚できていないハードロック・ミュージシャンは、ほとんどだめになってしまった。

 なるほど。続いて、パンク・ロックについて...

新しいムーヴメントというのは、一種の揺れ戻しとして現われる。パンクも、まず自分達の最初の敵として既存のロック・バンドを挙げた。肥大し曖昧になるばかりのロックに対し本来のパワーと直接性を回復させるべくパンク・ロックは登場したのだ。
 いつの間にかロックは中産階級の安定のシンボルとなり、一種のヒット・ソング大量生産工場化してしまっていた。ハードロック・バンドにしても、パターン化したスタイルをくり返すばかりで、新しい事は何もやらない。
 景気が下降し、どんどん閉鎖された状況に追い込まれていくロンドンのティーン・エイジャーにとって、そうしたロックには何んのリアリティーも感じる事ができない。パンク・ロックが現れたのは、そうした状況を考えると当然の事といえるだろう。

 そうだったのだ。ロックの世界もまた、歌は世につれ世は歌につれ。ということで、面白かった。