中部博『炎上−−1974年富士・史上最大のレース事故』

炎上―1974年富士・史上最大のレース事故

炎上―1974年富士・史上最大のレース事故

 1974年に富士スピードウェイで起きたレーサー2人の死者を出した大レース事故の真相に迫るルポルタージュ。直接、事故に関係したレーサーを含め、多くの関係者に取材した労作。既に40年近くたった事故であり、その歳月があって語れることもあると思う。そして読んでいて、暗澹とさせるものがある。この事故では、ひとりのレーサーが業務上過失致死傷罪の容疑で書類送検されるのだが、そうした異例の展開も、このルポを読んでいると、なぜ検察や警察が乗り出す騒動になっていったのかがわかる気がする。
 著者は、今の倫理感覚で当時のオートスポーツを見てはいけない、そして、この事故をひとりの責任にしてはいけないと再三再四、書く。しかし、読んでいると、やはり、個人の問題が浮かび上がる。なせ、そうした個人が生まれてしまったのか。それは当時の企業の問題、興業の問題、時代風景など、スポーツマンシップとは無縁の個人を生み出した環境の問題が解説されており、それはそれでわかるのだが、それでも、その個人の問題を考えてしまう。
 事故に遭遇したレーサー、メカニックの多くが心に傷を負っている。結局は二人のレース仲間が死んだ事故のあと、それぞれの人がどのように、その後の40年近くを歩んだかがもうひとつのドラマになっているのだが、そこを見ても、その個人には痛みが見えてこない。社会的制裁も受け、既に贖罪は終わったと思っているのか、当時は多かれ少なかれ、誰でもやっていたことだからと何の自責の念もないのか、あるいは消え去りたい過去として記憶から消去してしまったのか、それはわからない。頑なに沈黙を守る人、救助に向かわずにレースを続けたことにいまだに悔恨の情を抱く人など、他のレーサーやメカニックたちとかなり違う。事故の中心人物だけが違う世界にいるように見えてくる。
 読み終わってみると、ひとりの責任にしてはいけない、いまの倫理で過去を裁いてはいけないと再三再四、筆者が語るのは、読者に対して、というだけでなく、筆を持つ(キーボードを叩くか)自分自身に言っているようにも思えてくる。筆が走るのを抑えるために、自分自身に言い聞かせているような...。できるだけ冷静に、公正に真実に迫ろうとしているだけに、迫力があり、そして、レーサーや関係者ひとりひとりの言葉や、その後の人生が重みを持ち、ひとりひとりの人間が浮かび上がってくる。